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遁世のすすめ 特別展 浦上玉堂 /東京黎明アートルーム

 なにも心配することはない。
 厭世的な人生観は、これもまたいつものこと。中学生の時分から兼好法師や晴耕雨読の生活にあこがれ、定年退職後のことばかり考えるような子どもであった。
 この男に、競争社会だとかビジネスだとか生涯賃金だとか右肩上がりの成長だとかいった言葉はそぐわない。よくもまあ、こうしてこれまで一般企業でサラリーマンとしてやってこれたものだなあとつくづく思う。かつて転職活動などというものをかろうじて乗り越えられたのも、親譲りの口八丁手八丁によってだった。会社組織において多様性を形成する一端を担ってきた自負だけは、無駄にあるのだが。
 ここ数年は時代のほうが追いついてきた感がある。「ワークライフバランス」「ライフシフト」「FIRE」。よい傾向だと思う。みんなそうなってほしいとはかならずしも思わないけども、少なくとも、そういった生き方が認められ、しやすい世の中になっていてほしい。
 仕事が好きなのは悪いことではないし、趣味を犠牲にしてもかまわないものというくらいに捉えられているのならば、なにも部外者が口をはさむ必要はないだろう。けれどわたしは、隠棲・隠遁の境地のほうにより魅かれる。現実にそうまではできなくとも、そのあたりの線引きをきっちりとすることが、わたしなりの処世術でもある。

 文人画と呼ばれるジャンルがある。
 世を厭い、大いなる自然に身を置いて、詩書画をたしなみ、読書をし、酒を飲み、時に楽器を奏で、情趣を解する知音の人とともに清らかな交わりをもつ。そんな境涯を絵画化したものが文人画で、その代表的画家にして最も文人的な生き方をした人物こそが、浦上玉堂だった。
 玉堂の山水のなかにいる、山路を往く人、杖を曳いて橋を渡る人、山中の小庵で読書をする人。彼らに自分を投影し、画中の岩石や山川草木をうちながめ、歩きまわる。
 東中野の東京黎明アートルームで開催中の特別展「浦上玉堂」では、この「臥遊(がゆう)」の愉しみを存分に味わうことができた。
 本展のサブタイトルに引用された、玉堂の画境を端的に示す言葉がよい。

 画法は知らず ただ天地(あめつち)の声を聴き 筆を揮う

 絵を描くうえで特定の師をもたず、旅をし、酒を飲み、自然のなかに生きた玉堂。彼の生き方と自分とを重ねながら、絵に向かう。それはすなわち、仮想的な遁世・隠棲・隠遁の行為ともいえよう。

 作品に相対して感覚的に美を観ずる態度ももちろんよいけれど、あるひとりの作家の展覧会に来たからには、こういう楽しみ方をしないともったいないなという気もする。
 わたしはそのあたりをそのときの気分によって決めるのだが、どういうお作法にしたって、やはり美術館は別天地。楽しいことに変わりはない。


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