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画鬼 河鍋暁斎×鬼才 松浦武四郎:1 /静嘉堂文庫美術館

 「画鬼」と「鬼才」の競演……ということだが、「鬼」の連想から「鬼才」をひねり出した点に、並々ならぬ苦心の跡がみえる気がした。「暁斎=画鬼」はごく一般的でも、「武四郎=鬼才」とは耳慣れない。

 「松浦武四郎って誰?」との問いには、うまく答えられる自信がもてない。
 「好古家の代表」と説明したところで、「好古家」の語を知っている人は、間違いなく武四郎を知っているはず。「“北海道” の命名者」と聞けば関心をいだかれるだろうが、「で、どんな人?」と畳み掛けられたら、また困ってしまうのだ。今回は暁斎との「鬼」つながりで、なんとか「鬼才」まで漕ぎつけた。
 三重県松阪市にある松浦武四郎記念館のホームページでは、まず、こんなふうに言い表している。

さまざまな顔を持つ幕末の偉人

松浦武四郎とは

 「お、おう……」といった感じだが、続けて「冒険家、探検家」「地誌学者」「作家、出版者」「北海道の名付け親」といった肩書きが現れる。このマルチ性を引っくるめたら「鬼才」ともなろう。
 17歳から全国行脚をはじめた武四郎。とりわけ蝦夷地はくまなく歩きまわり、地理や風土に深く通じていた。その経験・知識を買われ、明治新政府の開拓使に「蝦夷地御用掛」として雇われるも、アイヌの人びとに寄り添った政策を進言し、時の役人と衝突、下野してしまう。以後は古物の蒐集にのめりこむなど、俗世を離れて悠々自適に過ごした。

 この武四郎が、幕末・明治を股にかけた浮世絵師・河鍋暁斎とは同時代人であるばかりか、昵懇の仲であり、ご近所さんであった。暁斎は湯島、武四郎は神田五軒町(現在の千代田区外神田。東京メトロ末広町駅の北西)。歩いて行ける距離だ。
 そんなふたりには、もちろん「共作」もある。武四郎の著書やコレクション図録の挿絵を、暁斎が描いているのだ。本展最初の部屋では、静嘉堂所蔵の暁斎の傑作《地獄極楽めぐり図》(明治2~5年〈1869~72〉)に続いて、こういった共作の版本を展示。
 天神さまを厚く信奉した、暁斎と武四郎。いうまでもなく、ふたりの近所には湯島天神がある。第2展示室では、天神信仰にまつわるふたりの作品や旧蔵品が並ぶ。
 暁斎は「日課天神」、すなわち一日一枚、欠かさず天神の絵を描くことを日課とし、湯島天神などの社寺に毎月奉納していたという。本展では、武四郎旧蔵の暁斎《日課天神像》(明治20年〈1887〉 松浦武四郎記念館   重文)を展示。

 暁斎と武四郎——ふたりの「共作」の集大成といえる、本展の目玉作品が河鍋暁斎《武四郎涅槃図》(明治19年〈1886〉 松浦武四郎記念館   重文)である。

 いったいなにかというと……昼寝する武四郎を入滅する釈迦に、武四郎愛蔵の品々やそこに描かれたモチーフを仏弟子や動物たちになぞらえた、なんとも壮大な “おふざけ” の図だ。
 もちろん、武四郎存命時に、本人の肝いりで制作されたもの。「鬼才」というよりは「奇人」の所業であろう。もう、やりたい放題。

 武四郎の旧蔵品は現在、三重の松浦武四郎記念館と東京の静嘉堂文庫美術館に分蔵されている。そのなかには、この《武四郎涅槃図》に描きこまれた愛蔵品が合わせて35点も現存しており、本展ではそれら全点と《武四郎涅槃図》を一同に展示。絵に群がるように、実際の愛蔵品がざわっと寄り集められていた。
 絵を観て、そのもとになったモノを観る、対照させる。他の展覧会ではあまりできない体験が、本展ではできたのであった。(つづく

部分。足元にすがって袖を濡らすのは、武四郎の愛妻



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