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処方箋

 仏像やお寺がすきですと言うと、やれ「徳が高いですね」だの「信心深いですね」だのと勘違いをされることが多い。
 たしかにそういう人もいる。というか、みなさんのもつイメージどおりの方が、じっさいは多いのだろう。
 かたやわたしは美術畑の人。お寺さんや信者さんの邪魔にならない程度に、歴史や美術の観点から、割りきって、造形物を楽しませてもらっている。勝手気まま。欲が多く、すぐ目移りをする。当然、仏の教えには明るくない。

 そんなわたしでも、心に迷いが生じたとき――うまくできなくてへこんだとき、人を傷つけてしまったとき、どうにもつかれているなと感じたときには、都合よく “処方箋” に手を伸ばし、すがりつく。
 真っ白の “薬箱” に、本がつまっている。本にはふせんの林がびらびらと築かれている。そこに記された言の葉が、わたしにとっての “処方箋”。
 本はお坊さんの書いたものや、自己啓発・精神医学関連の書物だ。他人に見られたくない私物をひとつ挙げよといわれたら、この箱を真っ先に思い浮かべるだろう。

 けれども、“処方箋” によって気づかされることは、たいてい決まっている。
 どの言葉だって、じつはそうむずかしいことを述べてはいない。
 むずかしくはないけれど、大事なこと。
 そして、大事なことにかぎって、忘れ、見失っている。瞬間、その瞬間の快が優ってしまう。読み返しても書き留めても、いつまでたっても身についていない……そんな自分が、とてもくやしい。

 信仰とはきっと、心の奥底に、静かに燃える灯火、遠くを照らす灯台、あるいは太くて揺るがない柱をもつことなのではと、外の人間としては思う。信仰心を胸に戦った十字軍や一向一揆は、あれほど強かった。
 柱も芯もなく、軟体動物のような自分は、そういったものをもつ人たちの純真さを、対岸からうらやましく眺めている。川を渡る勇気は、まだもてない。

 寅さんは毎度毎度、年賀状で「後悔と反省の日々を過ごしております」と定型句のようにのたまう。
 観衆は「嘘こけ!」「またまた!」と突っ込みを入れながら、愚かな寅さんに、ままならぬ浮き世の我が身を重ねる。 
 「顔で笑って腹で泣く」。その愚かさもまた、人間らしい姿といえるだろうか。
 体のいい自己弁護かもしれないが、もうちょっと、考えこむ時間が欲しい。明日はお休みだ。

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