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新宿の画家たち ―出会う、暮らす、描く。―:1 /新宿歴史博物館

 新宿という街の発展は、ちょうど100年前の関東大震災を契機としている。
 東京の西部は地盤が強く、建物の密集が少なかったこともあり、震災の被害が比較的小さかった。そのため、震災後に東部から人が流れ、街ができ、盛り場が生まれた。
 震災と相前後して、周辺の宅地開発も進んでいた。新宿区の北、豊島区域に接する「目白文化村」は、震災の前年から開発がはじまっている。新宿や池袋から近く、まだまだ自然も残っていたこの周辺に、アトリエ兼住居を構える画家は多かった。

 新宿歴史博物館の所蔵品展である本展では、この新宿区北部の落合・中井あたり、山手線でいう高田馬場〜目白間の外側を拠点とした画家たちを主に扱う。タイトルから、新宿中村屋サロンに集った面々を最初に思い浮かべていたが、その点は異なっていた。
 中村屋サロンの文化人たちは多士済々、ごった煮のインドカレーのごとく刺激的なエピソードには事欠かない。それに比べれば地味だけれど、同じ地域に暮らしながら、ご近所のよしみか否か、接点が少しずつみえてくるのがおもしろかった。

 この地域には、新宿区立の3つの「記念館」がある。
 中井の林芙美子記念館、下落合の佐伯祐三アトリエ記念館、そこから徒歩圏内の中村彝アトリエ記念館。
 いずれも住居兼アトリエが現存し、制作の実際を垣間見ることができる。本展で中心となるのも、記念館に名を冠する3名。

 林芙美子の夫は、洋画家の林(手塚)緑敏。林芙美子記念館に残る「アトリエ」とは、夫・緑敏のアトリエである。妻・芙美子も手すさびに絵筆をとったといい、そのさまを緑敏が描いた油彩の《芙美子像》(昭和12年)が展示されていた。
 緑敏のもう1点の展示作《下落合風景》(昭和10年頃)は、高台から家屋の瓦屋根や工場風景を見わたす、セザンヌふうの大作。
 ここに描かれる高台からの風景こそが、画家たちの愛した新宿区北部の景観だ。
 目白崖線で仕切られた、高低差のある地形。台地から見わたされる平地は「バッケが原」と呼ばれていた。佐伯祐三も、この高低差を絵にしている。

佐伯祐三《下落合風景》 個人蔵
  ※本展には不出品

 芙美子の早逝後、緑敏が保存に尽くした現・林芙美子記念館は、崖線の斜面に建てられた美しい平屋の邸宅である。西武新宿線・中井駅の近く。

 上の写真、記念館前の階段をのぼりきると、ものの5分もかからずに、松本竣介の住居兼アトリエがあった場所に着いてしまう。かなりのご近所である。
 昭和22年刊の芙美子著『一粒の葡萄』(南北書園)で、竣介は挿絵と装丁を手がけている。
 打ち合わせはしやすかったであろうし、文章と絵とが、きっとすばらしいハーモニーを奏でているのではないかと期待され、興味をそそられた。

 芙美子は、下落合在住の佐伯祐三とは直接のつながりがなかったが、その妻で同じく洋画家であった佐伯米子とは、挿絵の形で共作している。
  『週刊朝日』掲載の小説「巴里をひと眼見たとき」(昭和7年)がそれである。
 芙美子、米子ともに、当時としては珍しい、パリの土を踏んだ日本人女性であった。パリと新宿とがつないだ縁ともいえ、打ってつけの人選であろう。(つづく

石垣の合間に咲く花。新宿区内にて


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