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画家らしからぬ画家:1 高島野十郎展 /柏市民ギャラリー

 柏で高島野十郎展。
 蝋燭ので知られる野十郎は、福岡は久留米の生まれ。渡欧を経て郷里、東京、そして昭和35年から没年までここ千葉の柏に居を構え制作した。主要作のほとんどを所蔵する福岡県立美術館の協力で、生誕130年にかこつけて、生地の久留米と晩年を過ごした柏を含む今回の全国巡回展が実現された。
 野十郎は東大出のインテリで、美術学校出ではなく、絵は独学。絵画上の師も画壇との目立った関わりも持たず、渡欧して見聞を深めた。
 こういった経歴が、京大を出てスペインに渡った須田国太郎と妙にそっくりで興味深い。年齢も1歳違いで同世代(野十郎が年上)。
 もっとも、ふたりのその後の人生は大きく異なっていて、国太郎が生前から評価されて大学教授や芸術院会員にも就いたのに対し、野十郎は没後も含め長らく埋もれた存在であった。
 いま、野十郎の絵の評価はすこぶる高い(いちおう断っておくが、国太郎だって高い)。関連書籍も複数出ていて、よく売れている。「美術ファンのコア層のなかでは割とミーハー」くらいの位置にはつけている。近いところにいるのは、長谷川潾二郎あたりだろうか。
 この野十郎、不思議な画家だなあとわたしも思っていたのだが、いったいなぜ現代の人にこれほど受け入れられるのか。
 作品を観ながら思い至ったのは、彼の経歴に起因する、あくまでよい意味での〝画家らしからぬところ〟であった。
 《こぶしとりんご》という絵を例に出したい。変哲もない静物画であるが、こぶしの枝を挿している壺の表面に、りんごが映りこんでいる。海鼠釉と思われる釉薬に光沢があるために、脇にあるりんごの姿が反射してしまっているわけだが、それをそのまま描いているのだ。こうした事例はほかの作家でも探せばなくはないだろうが、構図として落ち着きは失われるし、なによりこれを描こうとする発想自体が少々素人くさい。
 《こぶしとりんご》のように成功作とはいいがたいものもあるのだが、蝋燭、闇夜の月、割れた皿の絵などにおいては、この視点が奏功している。
 そのどれもが一般的な画題からかけ離れていて、大多数の画家が興味を引かれるモチーフとはいえない。野十郎しか描きたがらないのではないかとすら思われるのである。
 美術教育を受け、基礎を叩きこまれた根っからの職業画家には、こうした選択眼は備わっていない。これが、よい意味での〝画家らしからぬところ〟、ふつうではない、とがったところだ。
 そして、そんな特徴とは一見対極にありそうな、高度な細密描写の技術を野十郎はもっている。ほかの画家とはひと味違うモチーフを、ほかのどの画家よりもレベルの高い写実で描いてみせるところに、野十郎の新鮮さがある。(つづく


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