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画家らしからぬ画家:2 高島野十郎展 /柏市民ギャラリー

承前)

 野十郎は全国を巡った「旅の画家」でもある。
 野十郎が各地で描いた風景画は「非・名所絵」。絵によって、できあいのストーリーを喚起することはない。ありふれた、ゆえに普遍性をもつような風景を描くのだ。むしろ、観るものそれぞれのパーソナルな記憶に訴えかける部分は強いから、ある意味でストーリーの多い絵といえるかもしれない。
 こういった作品からは、旅すがら画家が気に留め、この風景を描こうと決めたときの直観的で平明な心の動きが透けみえるようで、まことにすがすがしい。わたしはこの種の作品を、とりわけ好もしいと思った。
 野十郎は、メインのモチーフをど真ん中に据えることが多い。蝋燭も闇夜の月も堂々とそうしていたのと同様に。写真の世界ではまずNGといわれる「日の丸構図」、当世風にいえばスマホで気軽に撮るスナップに近いところをもっていて、つまるところ非常に「わかりやすい」のだ。このあたりが、現代の野十郎人気に関係しているように思われる。やはりこの画家、画家らしからぬ。

 野十郎のもつ細密描写の技巧それ自体はきわめて精緻で、レベルが高い。それはたしかなことで間違いはないのだが、そういった点に気をとられ目を奪われていると、その奥にあるやわらかな、純粋無垢な視点が霞んでしまうような気がしている。
 殊に、蝋燭や月明りのような怪しい魅力をたたえた絵を見せられ、その人生を知ってしまうと「孤高の画家」の暗く鋭いイメージが観る側にはつきまとう。それでは、この画家の存在を汲みきれないのではないか……
 わたしなりに虚心坦懐に尽くしたつもりであるが、読者諸兄はどう思われるだろうか。

 ここからは完全に余談だが、このあとに、2駅先の我孫子へ向かったのであった。
 我孫子の街へやってきたのは、川瀬巴水を観に来て以来だ。今回の柏と同じく、商業施設の一角にある市民ギャラリーのような展示場であった。「仮設」という表現が似合いの。
 松戸、柏、我孫子、それに船橋、市川に浦安。いずれも千葉県西部のJR沿線に位置し東京のベッドタウンとなっているが、千葉県内でも税収が多いと思われるこれらの都市は、相応の規模の展示施設をもっていない。
 わが市川市には小規模の館が複数あり、文学ミュージアムや芳澤ガーデンギャラリーなどはとくによく頑張っている。東山魁夷記念館も、制約やしがらみが多いなか健闘しているからまだよい状況ではあるだろう。
 松戸、柏、船橋などは、まとまった美術コレクションを持っていて、仮設的な展示場で期間を区切って時折展示してくれる。松戸のデザインのコレクションやガンダーラ美術は松戸市立博物館で公開されることもあるが、美術の専門施設はない。柏の芹沢銈介コレクション、船橋の旧吉澤野球博物館コレクションや椿貞雄の寄贈品など、なかなか活かしきれていないのがもったいないところだ。
 これらの自治体には、市としての規模に似つかわしい常設の中核的な美術館があってしかるべきと思うのだが……観光に頼らずとも立ち行ける衛星都市として、文化行政の優先順位はこれ以上高まりをみせることもないのだろうか。いちばん歯がゆく思っているのは作品の保存・調査・研究・展示にたずさわる現場のみなさんであろうが、どうにかできないだろうか。


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