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府中さんぽ 与謝蕪村 「ぎこちない」を芸術にした画家/府中市美術館

承前

 都会の喧騒を離れ、武蔵野の自然に親しんだ充実の休日であった……と〆るのはまだ早かった。本来の目的は、府中市美術館「春の江戸絵画まつり 与謝蕪村」。

 「春の江戸絵画まつり」は例年「春の展示替えまつり」でもあり、前・後期でかなりの作品が入れ替わる。
 そのため、遠征を余儀なくされている身からすると、なるべく1度きりの訪問で多くを済ませられるよう算段をして向かうことになる。春先のわたしは、なにかと忙しいのだ(といってもすべて展覧会の話)。
 諸事勘案の結果、前期展示を拝見しにこうしてやってきたのだった。

 蕪村の絵画作品は山水などを描いた晩年のものが最上とされ、若描きや略筆の俳画は若干ランクの落ちるものとみなされている。
 この展示ではそういった価値観に疑問を投げかけ、草画ふうのくだけたものにも見どころがある、そちらが本領だと提示したいという。サブタイトルにもなった『「ぎこちない」を芸術にした画家』をキーワードとして。

 「春の江戸絵画まつり」の章解説や作品解説は毎回、易しく、滑らかで、饒舌。
 そんないつもの “府中節” に比べると、今回の「ぎこちない」に関する解説はいささか抽象的で、印象論の域を出ないように思われたのが正直な感想……
 わたしは、草画ふうのくだけたものにも、中国ふうの峻厳な山水にも魅力を感じる。
 だからこそ、それらの要素がまろやかに融和された晩年の大横物などは、やはり画業、もとい蕪村の場合「俳」も含めた「蕪村ワールド」の集大成として大きく扱われてしかるべきものと、展示を観たあとも依然として思う。

 東博の《山野行楽図屏風》。
 描かれた筆のあとが、余白のその白さのなかに吸い込まれ、霧消していくようだ。ピクニックの談笑も、木々や草々の、風に揺られてさわさわと鳴る音にかき消されて、明瞭に聞き取れない。
 こういった場を支配するかのようなスケールの作を前にすると、それよりも手前に並んでいた軽妙な絵、若描きの絵から受けた印象はいつのまにか吹き飛んでしまった。

 これは画家の性質どうこうというより、ひとえに好みの問題かもしれないけれども、われわれが知りたいのは「真行草」の振れ幅と同時に、そこに通底するものがいかなるかということ。
 そして、それは果たして「ぎこちない」とか「かわいい」で説明しきることができるものなのか……

 とはいえ、こうして思索の時間をもたらしてくれる展示は、いい展示。
 小難しく、じじむさい先入観から文人画を解放したいというのも大いに納得ではある。

 常設展の抽象画や牛島憲之さんの絵が適度なクールダウンになって、館を出る頃にはすっかり満ち足りた気分に。
 蕪村の絵がどうこうということについては、(「俳」のほうにさほどまで通じていないことでもあるし)またいつかの宿題としたい。

※3月中旬執筆。その後、臨時休館が決まり、会期は縮小となった


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