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杉本博司―春日神霊の御生 御蓋山そして江之浦:3 /春日大社国宝殿

承前

 春日大社本殿、そして若宮社への参詣を済ませ、杉本展ではおなじみの紋付き幔幕をくぐって、いよいよ国宝殿の展示へ。
 人ひとりが通れるほどの狭い一方通行、両側が白い壁の直線を進んで、展示室の暗がりに足を踏み入れる。初めて国宝殿に来たときにも思ったが、まっすぐに長いこの感じは、春日の参道が意識されているのだろうか。
 突き当たりには杉本さんのお軸が1幅だけ、スポットライトを浴びて佇んでいた。モノクロームの写真を軸装とした《那智滝図》(2012年)。陰影のメリハリが立ち、水墨の山水表現と遜色のない森厳な画趣を醸す。
 この滝に吸い寄せられて進んでいくうちに、そのひと筋の白が、いま自分が歩いている道の延長線上にあるかのように思えてきた。
 《那智滝図》を皮切りに、1階の展示室は杉本さんの作品、とくに新作の2点が中心の展示となっていた。

 本殿南門を入って左にある「砂ずりの藤」を写した《春日大社藤棚図屏風》(2022年)。昇りかけの旭日が藤の房を照らしたほんの一瞬が、ここには焼きつけられている。
 「砂ずりの藤」は、樹齢800年を数える古木。藤原氏の氏神としての春日大社の歴史を物語る「生き証人」である。朱が鮮烈な社殿も、春日灯籠も、鹿も、本作には見当たらない。見馴れたイメージにいっさい頼らずに、春日大社を象徴する画(え)がつくりあげられた。

 《春日大宮暁図屏風》(2022年)は、明け方の本殿を捉えたもの。
 春日の森に光の粒子が届き、浸透しはじめる。躍動の予感がじわり……静かな、すがすがしい朝だ。
 屏風の前でじっと眺めていると、光の量が微妙に変化し、増えていくような気がしてきた。そんな錯覚をいだいてしまうほどに、静と動が混交していた。

 これら2点が、今回の新作。いずれも、デジタル撮影した画像データを和紙に出力し、屏風装とした作である。
 「写真を屏風にする」という手法は、多くの場合、珍妙さやキッチュさを当てこんだ邪な試みと受け取られてしまうものだろう。しかし、この3点には屏風となる必然性があって、珍妙だとかキッチュだとかは、つゆも感じられないのだ。
 先に掲げた《春日大社藤棚図屏風》《春日大宮暁図屏風》のふたつずつのリンクは、上が撮影したそのままの平面の状態、下が屏風装の展示風景となっている。
 屏風というものは、蛇腹に折って立てたときと、180度に開いて完全に平面化したときとでは見え方にかなりの違いがあるものだが、このふたつの屏風の例はそれをよく感じさせる。
 《春日大社藤棚図屏風》は、蛇腹折りになることで藤の花がこんもりと浮かび上がり、新たな立体性を獲得している。《春日大宮暁図屏風》では、本殿への視線の誘導が強く促される。中央の2扇分に集中線が引かれたような、そんな感覚に近い。
 2点の写真が屏風となる必然は、たしかにある。
 珍妙さやキッチュさの余地を抹消することは、並大抵ではない。かなりの計算と配慮のもとに、画(え)づくりが敢行されていることが察せられる。(つづく


 ※《那智滝図》が掛かっていた場所は、前期は《華厳滝図》(1977年)であったとのこと。


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