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湖北のおはなし:2 /東京長浜観音堂

承前

 「いも観音」のある安念寺は、お堂ひとつだけの無住の寺。10軒の家が持ち回りで管理している。

 今回の展示の写真がこちら(館内は撮影可能)。 

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 寺伝では左が毘沙門天、右が大日如来という。いずれも平安仏。毘沙門の腰のライン、大日如来の安定感のある立ち姿が美しく、側面や後ろ側から角度を変えながらじっくり拝見した。
 毘沙門はともかくとして、右の像は別の如来か観音さんかなと思われた。いずれにせよ、もはやなんという名前のみほとけであったか断定できぬほど、損傷の度合いが激しい。

 満身創痍ぶりは、このお像が歩んできた苦難の歴史こそ物語るが、同時に篤い信仰ぶりを偲ばせるよすがでもある。
 安念寺にはこういったお像が現在10体ほど伝わっていて、その総称が「いも観音」。
 織田信長の侵攻に備え、お像を田んぼに埋めて隠したことが損傷のそもそもの原因として語られるのだが、微生物の動きが活発な田んぼの中とはいえ、朽ちてしまうほど長い期間埋められたままになっていたとも思えない。おそらくは、戦国時代の時点で風化は相当進んでいたのだろう(なにせ、平安時代のみほとけである)。
 「いも観音」の名称は、天然痘の治癒後に残るかさぶたを「いも」といったことに由来する。お像の荒れた肌合いがかさぶたの「いも」を連想させ、転じて、このお像がきっと皮膚病を引き受けてくれる――「身代わり」となってくれるであろう存在として信仰された。拝むだけでなく、治してほしい部位を撫で、さすり、すがりついたのである。

 さらに、解説板にはこうある。

昭和の初め頃までは、夏には子ども達が堂から朽損した像を運び出し、村を流れる余呉川に浮かべて、水遊びをしていたという。また、村の大人達が川で仏像を洗う風習が伝わっていたともいう。農繁期には田んぼの畦に運び、子どもの守(も)り(遊び相手)をしてもらったそうだ。

 10数体ある朽ちたお像を、「芋を洗うように」川に浸す。
 その光景を映像で観たことがあるが、深川の木場の材木のように水面にたぷたぷと浮かび、村の人に洗ってもらっている平安仏は、「文化財」だとか「美術品」といったイメージからはかけ離れていた。それは「モノ」ですらなく、「村人の一員」とでもいう表現がいちばんしっくりくるように思われたのだった。
 お堂の奥に秘され拝まれるばかりが、信仰の形態ではないということだ。

 井上靖の小説『星と祭』は、長浜の観音さんを主題に据えている。
 地域の人の心のよりどころとしてのお像の在り方を端的に語っている一節があるので、少々長いけれども引用してみたい。

 自分たちが守っている観音さまを褒められた時、お堂の隅に坐っていた女の人たちの顔に現われた優しい笑いを忘れることはできなかった。その笑いのことを思うと、心が何とも言えぬ優しくきよらかなもので満たされるのを感じた。そうした女の人たちの心の中にあるものを、信仰と言っていいか、どうか知らない。信仰であってもいいし、なくてもいいと思う。信仰でなかったら、信仰というものになんの遜色もない別の価値を持ったものであるに違いないのである。(『星と祭』)

 近江の長浜に行って、観音堂の鍵を開けてもらい、土地の人のお話を聞けば、このことが身をもって実感できる。
 それはなにものにも代えがたい素敵な体験であるのだが、その予習としてまずは八重洲の観音堂に行ってみることをお勧めしたい。館内には観光用のパンフレットもあり、アクセスの相談もできる。
 「いも観音」の出張展示は11月14日まで。

※タイトルの元ネタは、知る人ぞ知る長浜の駅弁「湖北のおはなし」。なんとも素朴で品のあるお弁当。唐草の(盗人風の)包みもかわいい。青春18きっぷの乗り換え時などに米原駅でも買える


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