見出し画像

うるしのうつわを買う話:2

承前

 日の出が遅まって、いっそう肌寒くなりはじめてから、わが家の朝食の献立に味噌汁が加わるようになる。そのあとさらにコーヒーを飲むのでお腹はたぷたぷになってしまうが、どちらか一方というわけにもいかない。身体の温まりようが違うのである。
 季節柄、どうしても汁椀が恋しい。それも滴生舎のものから選ぶとなれば、半胴形よりも少し浅いふつうの形状の椀と、滴生舎の看板である「角椀」の二者択一と考えていた。
 角椀は、高台(こうだい)から腰のあたり、腰から口縁にかけてがそれぞれ直線をなしている特徴的な椀。アールデコ風と解釈してもよいかもしれない。エッジの立った箇所は漆が流れて薄めにかかるから、とくに溜塗においては色みの違いがはっきりと出てきて、文字通りに「際が立つ」。モダーンな漆椀である。
 この角椀は展示のみで、その場で受注を承るのだという。納品はその時点で11月下旬。
 今は1月である(※執筆時点)。1シーズンをまるまる持ち越し、この冬をお預け状態で過ごすのはいかがなものか……夏になれば冷や汁や葛切りを食すために使ってもいいし……
 頑固な自分を納得させるにはマイナスの要因だけではなく、肯定的な観点からも妥当性を探ってもうひと押しするのが正攻法。
 隣の、通常の形状の椀に目を向ける。こちらは本日お持ち帰りが可能だ。
 いま「通常の形状」と言ったが、これは「タイプ」の話であって「フォーム(フォルム)」の話ではない。むしろ変哲もないタイプだからこそ、口径、高さ、高台径の比率・バランスといったフォームの面であったり、うるしの色艶、手取りの感触などの細かな違いにまっすぐに目が行き、峻別・判断はがぜん厳しくなる。
 逆に言えば、より直感が働きやすくなるともいえる。これまでわたしが幾多の現代作家のつくった椀に(申し訳ないが)ピンとくることがなかったのは、この直感とやらのじゅうぶんに働かなかった点が大きいのだ。この椀は素直なかたちをしていて、なんの引っかかりもなくするっと入ってきた。
 100円均一のプラスチックの汁椀は気が進まぬまま必要にかられ使いはじめたものだが、奇しくも使い馴れつつある。それと比べてみても、持ち上げ方や入る分量といった面で大きな違和感はなかった。そう言うと語弊がありそうだが、100円均一の商品というのは庶民レベルで見た最大公約数といえるし、普遍的な存在に近いということ自体、一定の価値が認められるのだということを断っておきたい。それに、100均の椀の分量は多すぎず少なすぎず、ちょうどよかったのだ。つまるところわたしの日々の生活のなかに、やはり「するっと」入りこんでくれるであろうことが容易に想像できたのである。
 この漆椀には大・中・小の3サイズ、朱漆と溜塗の2種類がある。塗は溜塗がいい。サイズは、体躯からすると大をおすすめされそうなところであるが、中でも大きすぎると思った。「大は小を兼ねる」という幻惑の言葉が浮かんでは消えるなか、決め手となったのは飯碗とのバランスであった。
 同じ膳ないしテーブルの上で、飯碗と汁椀、一菜をのせた皿と箸をバランスよく整えたい。左右対称に近づけるためには、飯碗と汁椀の口径に差があっては好ましくないのではと考えたのだ。小であれば、わが家の飯碗とも仲良く同居してくれるだろう。

 かくしてわたしは通常の形状の漆椀・小サイズを購い、味噌汁を飲むのに使っている。おかげで朝から気分がよい。
 「いいうつわは人を台所に向かわせる。そして結果的に毎月の食費を下げる」というちょっとした仮説を、わたしは長いこと温めている。しかしながら自身の食生活は外食中心で、せっかくのいいうつわたちも食器棚の肥やしとなっている体たらく。それゆえ何の説得力も持たぬのだが、今回ばかりは張り切っていまのところ毎日使っているし、手入れもいちおうちゃんとしている。
 うるしのうつわは、使ったらすぐに洗い、乾かしてやらなければならない。仮説の当否はともかくとして、少なくとも洗い物をシンクに溜め込まなくなる効能は感じている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?