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あれから13年 ただの都会に感じられるようになったバンコク ー第1章ー(3) 番外編 家出ハウスのご近所さん達

ーいつもリスの話をしているアメリカ人「George」
Georgeは、僕が行きつけだったLeeおばさんの食堂に一日中座り、ビール片手に「リス」の話をずっと一人で喋っていた。一人で喋っているので、そこに他人が入り込む余地なんて微塵もなかった。
目にはサングラス、耳にはブルートゥースのイヤフォン、少し腹の出た体にハンティングベストを羽織るのが、Georgeのお決まりのスタイルだった。なぜ彼がリスに特化した話をするようになったのか、誰も知る由はない ー確かに、ここらの電線をリスが這うのを見る機会は多かったのだが。
朝起きて、身支度を整え、食堂に出向き、ビールを飲みながらリスの話をする。それが彼の人生の全てだった。強いて言うなれば、いつも耳に付けているブルートゥースイヤフォンが、先立たれた恋人と繋がっていたのかもしれない。

近所で聞いた所では、昔、高所より落ちて頭を打って以来、Georgeはずっとリスの話をするようになってしまったらしい。それにしても、旦那以外の男が一日中家に入り浸っているのに ータイのローカル食堂は、居住エリアなんだが食堂エリアなんだか分からない、公私混同スペースである場合がある、Leeおばさんは意にも介さず、といった体だった。今考えてみれば、社会的弱者に対するタイ人的タンブンの一種だったのかもしれない。毎日、食堂の開店から閉店まで同じ席に座っているので、Georgeの席に他の客が座っているのを見る事はなかった。

Georgeとの思い出といえば、こんなエピソードがある。ある日クロントゥーイ近辺で道に迷った僕を、無駄に優しい警察官が、バイクに2ケツして家出ハウスまで送り届けてくれた事があった。 ー後で彼女のNatには、散々に怒られた。タイの警官を信用してはいけない、と。
警官のバイクの後部座席に跨る僕の勇姿を食堂から目にしたGeorgeは、「Great!」と言ってビール瓶を頭上高く持ち上げ、席から立ち上がったのだ。この時が僕にとって、Georgeがリス以外の言葉を発した、最初で最後の時だった。

ーほぼ毎日通った名もなき食堂の「Leeおばさん」
宿の裏手にあるこの名もなき食堂が、僕とGeorgeの行きつけの店だった。
スピッツのヒット曲ロビンソンのタイトルは、タイのロビンソンデパートから拝借されたという話は有名だが、ミスチルのあのヒット曲は、この食堂をモデルに作られたのだろうか、と思わせるものは一切なかった。その為、食堂のBGMはミスチルではなくGeorgeの独り言だったのだが、それでもタイの一品料理が25バーツほどで食べられる小さな食堂で、僕とGeorgeは重宝していた。
Leeおばさんの作るタイ料理は、実際にタイの家庭に招かれたらこんな料理が出るんだろうなーと想像させる、素朴で優しいタイの家庭料理だった。カイチアオ・ムーサップ(挽き肉入り卵焼き)など、卵が弱火でふっくらと焼かれていて絶品だったし、ガイパットキン(鶏肉と生姜の線切り炒め)なんかは、元気がみなぎるような美味しさで、 ー効果があったのかどうかは不明だが、風邪気味の時などは良く好んで食べたりした。

Leeおばさんは中華系のぽっちゃりしたおばちゃんで、45歳くらい。旦那さんも同じく中華系の50歳くらいで、いつもムスッとした表情で、新聞に穴が開くんじゃないかってくらい熟読していた。中年の夫婦には高齢出産したのだろう、3歳の息子がいて、タイ語の練習相手にちょうどいいなと思っていたのだが、走り回ってるだけで意思の疎通が取れれた事はなかった。弟とはだいぶ歳の離れた長女がいて、タイの名門チュラロンコン大学を卒業し、日系航空会社のCAとして活躍してるのがLeeおばさんの自慢中の自慢だった。

ただ、後々このおばさんが近所の噂話の司令塔的存在であると知って、何でこんなひねくれた人がこんなに美味しい料理が出来るのか、未だにその謎は解けていない。

ー24時間レストランを切り盛りする夫婦「SunとPick」
この薄汚れたバンコクの片隅で、夫婦交代制でストイックに24時間営業のレストランを貫いていたSunとPick。店の後ろには、タニヤ嬢が全戸の80%以上を占めるアパートがあったから、朝昼だけでなく夜、夜明け前の各時間帯での常連客をつける為に、24時間営業は致し方ない選択だったのかもしれない。

何時に行っても、一般的なタイ料理やお酒まで頼めたから、その安心感はコンビニ以上のものだった。そして、そんな怪しい丑三つ時にも開いてるものだから、当然の如く不良外国人の溜まり場にもなっていた。そして僕も、そんな不良外国人の一員だったのかもしれない。

何時に行っても、夫婦どちらかの疲れ切った表情に出会う事が出来た。夫婦とはいいつつも、一方が働いている時は一方が買い出しに行っているか寝ている訳で、この夫婦はいつ以来顔を合わせていないのかと思うと、他人事ながら心配だった。

ーコンビニの前でイサーンソーセージを売る「名前も知らない親友」
彼とは本当に長い付き合いだった。この家出ハウスに住み始めた初期の頃から、彼が作るイサーンソーセージを食べ続けていたからだ。

イサーンソーセージとは、ソーセージの中に春雨を詰めたものなのだが、酸っぱいタイプとそうでないタイプがあり、手押し屋台の上にある網で炭火焼きしているのを良くみかけた。僕は酸っぱいイサーンソーセージが大好きで、酒のつまみとしても重宝していた。
彼の店じまいに出くわそうものなら、近所のローカルカラオケ屋の用心棒や、セブンやロータスの店員らが集まってきて、歩道での即席宴会が始まった。酒は、悪酔いするタイの安ウィスキーが定番だった。溶けてプラスチック袋の中でダマになった氷を、地面に叩きつけて細かくする術や、栓で栓を抜く方法等、タイ生きていく上での必須スキルを学んだ。
僕が唯一の外国人という事で、タイ人達は飲みの席でいつもヨイショ=冷やかしてくれる訳だが、話されている内容はほとんど分からなかった。ただ「アーユー、コボリ?ハハハ」と言われる事が多々あったので後々調べてみると、コボリというのは繰り返しリメイクされているタイの大恋愛ドラマ「クーカム」に出てくる、旧日本兵の名前である事が分かった。バンコク駐屯兵のコボリがタイ人のアンスマリンと恋に落ちるストーリーなのだが、最終的に自分もストーリーの主人公となってしまうバンコク在住の日本人男児が多い点では、現代にも通じる点があると感じた。

しばらくして、家出ハウスに引っ越してきたさや子さんと出会った。近所を紹介がてら、二人で散歩しに出かけた折に、コンビニの前でイサーンソーセージを売る親友を紹介した。さや子さんはタイ語が達者だったので、紹介したての僕の親友と馴れ馴れしくしゃべり始めた事に、一抹の嫉妬を感じた事は否めない。僕はといえば、クイッティアオ(麺)とパイティアオ(遊びに行く)の区別もついてなかった、タイ語黎明期の頃だ。
一通り2人がしゃべり終えたのを見届けると、さや子さんそろそろ行きましょうか、と促して、僕の親友と引き離す事に成功した。「僕たちもう知り合って何か月か経つんですよ、知り合って数分で、そんなに馴れ馴れしくしないで下さい。」ーとはもちろん言えなかったが、嫉妬心からさも興味無さそうなフリをして、「さや子さん、彼と何話してたんですか?」と聞くと、「俺たち、もう知り合って長いんだけど、KOBORIが何言ってるか、さっぱり分からないんだよねーだって。」

ー屋外喫茶店を営む「Lek姉さん」
僕のタイ語のルーツは、この喫茶店にある。地黒で背が低くて団子っ鼻の、決して美人とは言えないLek姉さんが、排気ガスと騒音まみれの、ラーマ4世通りの中華菓子屋脇で細々と開いている、屋外喫茶店。辛うじて屋根があったものの、スコールに出くわそうものなら、喫茶店の屋根の下にいる意味なんてほとんどなかった。ラーマ4世通りという大河の中州にあった喫茶店。
排気ガスをあてにコーヒーを啜り、騒音に耳を澄ませる。小さな折り畳み式の木の机と椅子の席が二席ほどあり、長時間座っているとお尻が痛くなってくるシステムを採用していた。

初めて覚えたタイ語も、この喫茶店だった。その魔法の言葉は、マイサイ・ナムターン ー砂糖を入れないで。時代の流れで、今でこそ健康志向から砂糖なしのコーヒーを頼むタイ人が出てきたものの、当時、大多数のタイ人にとって、コーヒーを飲む=甘いものを摂取する という認識だったようで、その後も他の喫茶店に浮気しようものなら、マイサイナムターンのコーヒーを注文する宇宙人のように見られたものだった。このマイサイナムターンを注文する得体の知れない化け物を唯一受け入れてくれたのが、Lek姉さんの喫茶店だった。


就職に向け、仕事の面接以外やる事がなかったので、暇な時はずっとLek姉さんの喫茶店に入り浸っていた。
社会人経験ゼロ、英語中途半端、タイ語一切しゃべれません という履歴書は、日本のみならずここバンコクでも全く通用せず、最終的に100社近くもの面接を受ける事になるのだが、今この時点で履歴書の内容を少しでも改善できるとしたら、タイ語力を短期間で上達させる以外、方法がなかった。その為、履歴書には「タイ語ー日常会話レベル」と嘘を書き、各社の書類選考をクリヤしていたのだが、面接で化けの皮が剥がされる、というケースを繰り返していた。その為、この喫茶店で折り畳み椅子と机に座り、モクモクとタイ語の勉強をする ーそれが僕の日課になっていた。
勉強したてホヤホヤの内容を、アツアツの内にLek姉さんで実践する。ー今でこそスマホがあるので、喫茶店の店員など暇を見つけてはスマホで遊んでいる訳だが、NOKIAのガラケーが主流だった当時、喫茶店の店員は所在無げに座っているだけだったので、いつでも話しかけやすかったのだ。
その出来立てホヤホヤのアツアツ練習が功を奏し、タイ語は瞬く間にしゃべれるようになっていた。気が付くと、履歴書の内容も嘘ではなくなっていた。

ある日、ふと喫茶店に立ち寄ると、見知らぬアジアンビューティーが座っていた。艶のある長い黒髪、目鼻立ちが整い、地黒の肌艶が美しい女性だった。全く想像出来なかったのだが、Lek姉さんの実の妹だった。肌の黒さ以外、Lek姉さんとの共通点は見つからなかった。器量がいいものだから、性格は如何なものか…という感じではあったものの、何人ものタイ人男性が、彼女目当に喫茶店に詰め寄って来ていた。だが彼らの愛は、喫茶店の売上として計上されるのみで、ついぞ彼らの愛が成就するのを見届ける事はなかった。

※登場人物は、全て仮名です。

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