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リミナリティで読みとくwith コロナ|文化人類学と、日常と、自分

梅雨が明け、暑さが本格化してきたが、読者のみなさんはいかがお過ごしだろうか?

新型コロナの感染者が増え始めた3月以降、ほとんどオフィスに行かないで、リモートにて仕事をする毎日だったのだが、最近業務の関係上、オフィスを含め、外出して仕事をする機会が増えてきた。

これまで、基本的には「仕事はオフィスでするもの」と考えてきた自分の観念からすると、「リモートでも仕事ができる」という発見は非常に大きなものであった。したがって、自分の生活だったり、仕事観に大きな変革がもたらされたように思う。

同時に、日常生活の中で少し"奇妙な"感覚を覚えることがある。

例えば、人がマスクをして適度な距離を保ちながら仕事をしているオフィスに赴く時、人が近づきながら仕事をしていた以前までのオフィスの光景が自分の脳の中にオーバーラップして、とても不思議な感覚に包まれる。

まるで、自分を巡って二つの時間軸が争っているような感覚である。

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他の例でいえば、仕切り版が設けられたスーパーのレジにて、「あれっ 前からこんな感じだったっけ...」と困惑する瞬間がある。

「どうしてこのような感覚に襲われるのだろう?」と、今でも考えているのだが、今回は文化人類学のフレームワークから、この事象を紐解いてみようと思う。

今回取り上げるのは、「リミナリティ」という概念である。

リミナリティと境界性

文化人類学というものが扱うテーマの一つに、"通過儀礼"(具体でいえば、成人になる為の儀式)というものがある。この儀礼のプロセスに注目して、議論を発展されたのが、文化人類学者・ヴィクター・ターナー(1920-1983)による「リミナリティ」の概念である。

以下は、ターナーによる「リミナリティ」の解説を、富蔵光雄氏が訳したものである。


リミナリティの、あるいは、境界にある人間(″敷居の上の人たち″)の属性は、例外なく、あいまいである。このあり方(コンディション)やこの人たちは、平常ならば状態や地位を文化的空間に設定する分類の網の目(ネットワーク)から脱け出したり、あるいは、それからはみ出しているからだ。境界にある人たちはこちらにもいないしそちらにもいない。かれらは法や伝統や慣習や儀礼によって指定され配列された地位のあいだのどっちつかずのところにいる。そういうわけで、かれらのあいまいで不確定な属性は、社会的文化的移行を儀礼化している多くの社会では、多種多様な象徴によって表現されている……
(ヴィクター・W.ターナー[著], 富蔵光雄[訳]「第三章 リミナリティとコムニクス」『儀礼の過程』[The Ritual Process: Structure and Anti-Structure]思案社,1976年より引用)

つまり、「リミナリティ」とは、安定した日常から「遷移・分離し」、固定的な役割や地位などで構成される日常の秩序・構造とは対立する、混沌状況に強制的又は自発的に置かれた状態のことを意味する。

(当該反構造・無構造の状況から、秩序だった安定の状態に戻った際には、より高次の存在に至ったと実感できる、という点に関してもターナーは踏み込んでいるが、この記事では立ち入らない)

次に、このリミナリティと関連性の高い、「境界性」の概念についても取り上げてみる。メアリ・ダグラスは、その著書『汚穢と禁忌』の中で、以下のように述べている。

未開社会とは、その社会が属する宇宙の中心を占め、かつ力を帯びた構造体である。さまざまな能力が―幸運をもたらす能力や侵犯に対して復讐する危険な能力が―その構造体の要所要所から発生するのである。しかし、社会とは、中立的で外圧のない真空中に存在するのではない。それはさまざまな外部圧迫に曝されている。つまり、その社会と一体でないもの、その社会の一部でないもの、その社会の規範に従わないものはすべて、その社会に反逆する可能性を蔵しているのである……
(メアリ・ダグラス[著],塚本利明[訳]『汚穢と禁忌』ちくま学芸文庫,2009年,p37)

上記の記述は、「未開社会」だけでなく、「個人」と読み替えることもできる。つまり、自己というものは、様々なファクターからの圧力に絶えず晒されている存在なのである。

また、長期に渡ってそれらの異質なファクターとの接触が継続する場合、[異質なモノを秩序立て、受容していくプロセス]が繰り返されることになる。

それにより、自己の「境界」が、拡張され、変容を遂げる可能性も考えられるのだ。

with コロナにおける日常と、自分

これまでに取り上げた二つの概念に鑑みると、(もしかすると)with コロナ時代の自分は、文化人類学的に言えば、以下のような状況にいるのかもしれない。

① 混沌とした、不安定な状況に置かれた「リミナルな」状態

② (以前と比較して)異質な日常に晒され続けることで、「境界」が拡張され、変容した状態

これらの状況に於いては、「混沌状態に於いて、自分の考え方が常に揺れ動かされる」体験や、「異質なモノをどうやって自分の中で秩序立てて整理するか」という葛藤が生じる。

私が感じていた"奇妙"な感覚は、きっと新しい日常を秩序立てて、自分の物語へと昇華させる為に必要な体験なのかもしれない。

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新しい日常が、自分の物語に組み込まれた時、そこからまた新しい感覚が生まれるのかもしれない。新しい自分に出会う為に、こんな状況であっても自分の感覚を研ぎ澄ましていこうと思う。

では、また。

(taro)

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