和田岬線ブルース㊤
JR兵庫―和田岬間を結ぶ、わずか2・7キロの和田岬線。車両のレトロさや、たどってきた歴史、さらには、沿線にある川崎重工業兵庫工場(神戸市兵庫区和田山通2)で生産される新車両のデビュー路線として、全国の「乗り鉄」「撮り鉄」たちの心を捉えてやみません。ド・ローカルが2回に分け、その魅力を徹底研究します。
唯一のスカイブルー103系 今も現役
JR西日本などによると、和田岬線に使用されている車両「103系」は、旧国鉄時代に製造されたものです。最盛期には、都市部を中心に全国で3千両以上が運行し、和田岬線には1990年代に登場しました。
しかし、現在は、加古川線、播但線、奈良線などの数十両を残すのみです。その中で、「スカイブルー」と称される青色の103系は和田岬線だけだといいます。乗車時間が3分半しかないためなのか、車内につり革広告は見当たらりません。また、今では超レアとなった扇風機も天井に付いています。
着けば〝とんぼ返り〟のトンボ列車
103系が導入される以前、和田岬線を走っていたのは、通称〝トンボ列車〟でした。何両も連なった旧式の客車の前後に、それぞれディーゼル機関車を連結。駅に到着するととんぼ返りで反対方向に出発することから、この名が付きました。
1990年9月で廃止されることになり、当時の本紙は、運行最終日のイベント「さようならトンボ DC新たなる旅立ち」のにぎわいを伝えているます。兵庫駅には全国から引退を惜しむ鉄道ファンら5千人が集結しました。
幻の駅を示す痕跡 中間駅「鐘紡前」
兵庫駅から1・6キロの線路脇に、色あせたブロックの痕跡を見つけました。かつてあった中間駅「鐘紡(かねぼう)前」の跡地です。
1896年、旧鐘紡紡績(現クラシエホールディングス)兵庫工場が操業を開始。鐘紡前はこの工場の従業員らを運ぶため、1912年に開業しました。往時は3千人もの従業員が働いていたといいます。
しかし、太平洋戦争末期の神戸空襲で大きな被害を受け、1945年5月に閉鎖されました。終戦後も再開されることはなく、工場の診療所を前身に設立された神戸百年記念病院だけが付近に残りました。
鐘紡前は終戦後間もなく休止となり、正式に廃止となったのは、終戦から17年たった1962年。その後、ホーム部分は阪神・淡路大震災を乗り越えましたが、最近になってそれも撤去されてしまいました。
ちなみに和田岬線は、かつて三菱重工業神戸造船所まで延び、その上には神戸市電の跨線橋がありました。1971年の廃止まで、往時は〝東洋一〟とも称された路面電車が和田岬線の頭上を往来していました。
兵庫運河の盛衰伝え 日本最古の可動橋
兵庫運河にかかる全長15・5メートルの「和田旋回橋」は、1899年につくられた日本最古の旋回式可動橋です。昔は船が通過するたびに橋が動いていましたが、現在は回転部分が固定され、動かなくなっています。
昼間の8時間は電車が一切走らない
JR和田岬駅は兵庫駅から延びる支線(全長約2・7キロ)の終点駅で、多くの人は、この支線を「和田岬線」と呼びます。しかし、あくまで通称。正式には山陽本線の支線という扱いです。
ダイヤを見て驚きました。なんと午前9時すぎから午後5時すぎまでダイヤは空白(2020年当時)。つまり、昼間の約8時間は、電車が一切走りません。
平日は17往復、土曜日は12往復で、日曜・休日は何と2往復しかありませんでした。
<ド・ローカル>
1993年入社。和田岬線の所要時間はわずか3分半~4分間です。三菱重工業神戸造船所員のための通勤電車といっても過言ではありません。和田岬駅は、都会の駅には珍しい無人駅で、改札はおろか自動券売機もありません。「都会の中のローカル線」。いや、「都会の中の秘境路線」と言うべきでしょう。
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