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街から映画が生まれる 濱口竜介と黒沢清

秋が深まってきました。秋の夜長に、映画鑑賞を楽しんでいる方もおられるでしょう。今回は私、ぶらっくまが、映画にまつわる話題をお届けします。

去る9月の出来事になりますが、イタリアで開かれた世界三大映画祭の一つ、第80回ベネチア国際映画祭で、濱口竜介監督の作品「悪は存在しない」(日本では2024年に公開予定)が最高賞の金獅子賞に次ぐ銀獅子賞(審査員大賞)に選ばれました。

濱口監督は既にカンヌとベルリンの両国際映画祭、米アカデミー賞でも賞を射止めています。世界三大映画祭(カンヌ、ベルリン、ベネチア)のコンペティション部門とアカデミー賞の全てで賞を獲得するのは、日本人では故・黒沢明監督以来の快挙となりました。

濱口監督は1978年、川崎市生まれ。〝世界のハマグチ〟となるより前の2013年から約3年間は、神戸に住んでいたんです。


(2013年6月掲載)神戸在住の濱口竜介監督 重視するのは「言葉」

「実際に耳にしたせりふを脚本に使うことが多い。日常にも大切な言葉があふれている」と話す濱口竜介監督=2013年6月撮影、神戸市中央区

 今春、神戸に移住した濱口竜介監督の関西初の特集上映「濱口竜介プロスペクティブ」が京阪神5カ所で開催される。国内外で評価されながらも上映機会が限られてきたが、今回は初期作から新作まで14本を一挙に公開する。作品の特徴は質問や対話の多さ。濱口監督は「近年はせりふを排する傾向もみられるが、僕は言葉で映画を作ることに確信を持っている」と言い切る。
 1978年、神奈川県生まれ。東大在学中に映画作りを始め、映画やテレビの現場を経て、東京芸大大学院映像研究科に進学。修了制作の「パッション」(2008年)はスペインのサン・セバスチャン国際映画祭新人コンペ部門などにも出品した。結婚を目前に浮気したり悩んだり、もつれ合う男女5人の物語。「本音ゲーム」と称し、互いの本心を尋ね合う。
 演出を抑えて役者に任せたところ、ゲーム中に立ち上がって怒鳴りだすなど予想外に情熱的な場面が生まれた。「質問という行為には物事を展開させる力がある」
 東日本大震災後に撮った東北3部作(共同監督・酒井こう)の「なみのおと」(11年)と「なみのこえ」(13年)は、津波被災者らにインタビューした証言記録。夫婦や友人同士が当日の体験や町の未来について語り合う。映像では対面しているように見えるが、実は隣に座り、それぞれ正面のカメラに向かって話している。「互いの顔が見えない方が明かせる本音もあるし、相手の言葉によって変化する表情もとらえられる」という。
 俳優を目指す学生らが舞台劇を作り上げる「親密さ」(12年)は、稽古風景(台本通りの演技)と実際の公演を入れ子構造にするという実験的な構成。ほかに日韓共同製作の「THE DEPTHS(ザ・デプス)」(10年)や、染谷将太ら出演の新作「不気味なものの肌に触れる」(13年)も上映する。
 商業上映されないままに多彩な作品を手掛けてきたのは「本当に撮りたいものだけを撮ってきた。製作の費用や場を提供してくれる人がいたおかげ」と感謝する。上映会のタイトルにある「プロスペクティブ」は将来への期待を意味する言葉だ。
 「地方で映画を作ることの面白さに東北で気付いた」といい、縁あって神戸へ移り住んだ。今年9月から半年間、即興演技ワークショップをデザイン・クリエイティブセンター神戸(KIITO=きいと、神戸市中央区)で開き、その参加者有志とともに来年、映画を製作する予定。「人は皆、生きてるだけで魅力的。それを映し出したい」と話している。

2013年6月28日付夕刊記事より抜粋

上の記事では、「ドライブ・マイ・カー」などの近作に通じる、言葉への強いこだわりが語られています。

また記事中で触れられている、東北を舞台にした記録映画については、別のインタビュー記事があります。

(2013年11月掲載)映画監督 濱口竜介さん/被災者の声を後世に

「私はそんな大した体験をしてないから、という人からも話を聞かせてもらった」と振り返る濱口竜介さん=2013年10月撮影、神戸市須磨区

 東日本大震災の被災者の声を集めた映画「なみのおと」(2011年、142分)と「なみのこえ」(13年、212分)は、約2年間滞在した仙台市から今春、神戸市須磨区に移住してきた映画監督の濱口竜介さんが、大学院時代の先輩、酒井こうさんと2人で共同監督を務めたドキュメンタリー。津波に襲われた岩手、宮城、福島県の沿岸部を訪ね、19組32人を取材した。震災体験をテーマにしつつ、「対話」「語ること」「聞くこと」が重要な要素となっている。作品に込めた思い、意図などを聞いた。

 ―劇映画を作ってきて震災後、初めて記録映画に取り組んだ。きっかけは?
 「仙台市の複合文化施設『せんだいメディアテーク』が、市民らによる震災の記録を保存するために『3がつ11にちをわすれないためにセンター』を設立する際、私の母校の東京芸大大学院も協力しており、映像を撮ってみないかと打診があった」

 ―2作とも、被災地の情景はほとんど出てこない。大半は、震災を経験した夫婦や親子、同僚など親しい人同士の対話や、監督による聞き取りの場面だ。
 「11年5月に初めて被災地を訪ねたが、映画になるかどうか見当がつかなかった。被災地の市会議員で、避難所のリーダーになった男性と出会い、体験談を聞かせてもらい初めて震災で何が起きていたのか、少し分かった気がした。だから、沿岸部に暮らす人のインタビューを撮れば、何か触れられるものがあるのでは、と考えた」

 ―登場する被災者らはよく話し、意外なほど明るい。津波に流されながらも生き延びた夫婦、遺体回収に携わった消防団員、海を離れて働く若い漁師…。親子や夫婦の情愛、町の将来への不安や希望など、話は深い部分にも及んでいる。
 「それぞれ撮影前に3、4回会って話を聞き、信頼関係を築いた。気心の知れた家族や知人を相手に、体験を語り合ってもらうことで深い話になったのでは。撮影は、カメラを前にした少し特別な時間で、普段話せない本音も出たかもしれない。当初は、こちらもびくびくしながら話を聞いていた。これだけしゃべってもらえるんだ、と意外に思った」
 「僕たちが会った人は、その強さにこちらが打たれるような人が多かった。もちろんそうでない人も大勢いるはず。今も震災について話せない人も間違いなくいる」

 ―撮影を通じて気付いたこと、映画への思いは?
 「僕自身は親の転勤が多く、実感がなかったが、土地と人とが固く結びつくということを少し理解できた。大規模な津波は、東北では30~50年ごとに襲来しており、土地の人は人生で1度か2度経験している。津波のことは語り伝えられているが、それがいつ自分の身に起きるかは分からない。ずっと気に掛け続けるのは難しいことだ」
 「東北から離れた場所の人々、あるいは100年先の人々にとっても、自分たちとそんなに変わらない人たちが被災し、こんな目に遭ったんだと思えるようになればいい、と思い撮った」

 ―今後の東北とのかかわりは。
 「また何かを求められたとき、飛んでいくこともあるだろう。今は、取材した人たちに恥ずかしくないよう、自分がやるべき目の前の仕事に力を注いでいきたい」

 ▼濱口竜介(はまぐち・りゅうすけ) 1978年神奈川県生まれ。東京大学文学部卒。映画の助監督やテレビ番組のアシスタントディレクターとして働いた後、東京芸術大学大学院映像研究科に学ぶ。監督作品に「親密さ」「不気味なものの肌に触れる」など。

2013年11月10日付朝刊記事より抜粋

東北での映画製作で「対話」や「語る」「聞く」という行為と深く向き合い、「地方で映画を作ることの面白さに気付いた」という濱口監督。

その後、最初の記事の末尾に出てくる、神戸での「即興演技ワークショップ」とそこから生まれた一つの作品が、濱口監督のキャリアにとって一つのエポックとなります。

(2015年12月掲載)「ハッピーアワー」濱口竜介監督/本番前の「本読み」を重視/女性たちの苦悩、静かに描写

「これはメード・イン・コウベの映画。神戸だから撮れた」と振り返る濱口竜介監督=2015年11月撮影、神戸市長田区

 神戸在住の濱口竜介監督(36)が、神戸を舞台に女性4人の日常や友情を描いた映画「ハッピーアワー」。スイス・ロカルノ国際映画祭で、演技経験のない女性4人が最優秀女優賞を受けた話題作だ。ヒロインたちの迷いや孤独を静かに見つめ、人が理解し合うことの困難を浮かび上がらせた。
 30代後半の看護師あかり、主婦桜子ら4人は親友同士だが、夫とのコミュニケーション不足、離婚訴訟などそれぞれの苦悩や満たされなさを抱えている。
 出演者は、濱口監督が、デザイン・クリエイティブセンター神戸で2013年秋から約5カ月間開いた、市民向け即興演技講習会の参加者17人が中心。プロの役者ではないが、講習や撮影で「いわゆる演技指導はほとんどしなかった」と振り返る。
 講習のテーマは「聞くこと」。参加者たちは互いの話を聞いたり、興味のある人を訪ねてインタビューしたり「おしゃべり」を続け、時間をかけて信頼関係を築いた。「おそらく『信頼すること』だけが、演技における唯一の本質的なテクニックだと思う」と濱口監督。
 演出法も独特だ。重視したのは本番前の「本読み」。役者たちは、脚本をニュアンスなしの「棒読み」でひたすら反復し、せりふを記憶。カメラを回すときは演技に感情を込めてもらうが、その瞬間、その場で「本当に感じたことだけ」を表現してもらった。求めたのは「はらわたで反応すること。それが本来の意味の『即興』」と語る。
 そうして、隣人ともいえそうな「普通の人々」の日常のドラマに生命感とリアルさが刻まれた。5時間17分もの長編だが「これがこの映画にとって最もいい長さ」と濱口監督。実際、繊細な人間描写や記録映画にも似た自然な空気感が秀逸で退屈することがない。驚くべき一作だ。

2015年12月4日付夕刊記事より抜粋

記事には「重視したのは本番前の『本読み』。役者たちは、脚本をニュアンスなしの『棒読み』でひたすら反復し、せりふを記憶」「カメラを回すときは演技に感情を込めてもらうが、その瞬間、その場で『本当に感じたことだけ』を表現してもらった」とあります。

この本読みは、フランスのジャン・ルノワール監督のドキュメンタリー映画に出てくる演技指導法に由来するそうです。濱口監督の「ドライブ・マイ・カー」の中で、劇中劇「ワーニャ伯父さん」に出演する多国籍の俳優たちの稽古方法としても描かれています。

(2016年1月掲載)メード・イン・神戸 世界で喝采/監督も主演も市民「ハッピーアワー」

(左から)濱口竜介監督と、主演女優の田中幸恵さん、菊池葉月さん=2015年11月撮影、神戸市長田区、神戸映画資料館

 KOBE発世界へ―。俊英・濱口竜介監督(37)=神戸市=による映画「ハッピーアワー」(2015年)が、海外の映画祭でも高い評価を得ている。物語の舞台もロケ地の大半も神戸。まさにメード・イン・コウベの傑作だ。「神戸で魅力的な人たちと出会い、この映画が撮れた。東京以外でも、時間をかければ、低予算・小規模のチームで良い映画が作れることを示したかった」と濱口監督は振り返る。

 濱口監督は、東京を拠点にしていたが、東日本大震災後に仙台へ移住し、被災者らに取材した東北記録映画3部作を製作。その後、芸術家が神戸で滞在制作する「デザイン・クリエイティブセンター神戸」(KIITO)のプログラムで招待作家に選ばれ、13年春に神戸へ移住した。
 KIITOで同年9月から5カ月間、市民参加の即興演技ワークショップを実施。「ハッピーアワー」は、受講した老若男女17人を中心に配役した。14年春から年末にかけ、神戸を中心に撮影。編集など完成まで足かけ3年を費やした。
 主演の女性4人をはじめ、素人俳優を起用。手法的には挑戦的な劇映画だったが、役者たちはゆっくり時間をかけて互いを理解し合い、撮影に臨んだ。「17人が特別な仲間になった」「人生で不思議な2年間を過ごした」と主演の菊池葉月さん(38)=兵庫県加古川市=や田中幸恵さん(42)=神戸市=は振り返る。
 濱口監督が求めたのは演技というよりも、現場でせりふを口にしたときに生じる、ごく自然な反応や役者たち自身の存在感だった。スクリーンの中で、彼女らは身近にいる実在の人物のように笑い泣き、生きていた。
 主演の4人が、スイス・ロカルノ国際映画祭で、最優秀女優賞の栄冠を手にした。「演技ではない演技。演じていると感じさせない」。映画祭の審査委員長はそう絶賛したが、実際、「最後まで演技している気がしなかった」と田中さんは苦笑する。
 摩耶ケーブルや有馬温泉、JR三ノ宮駅など、神戸市民にとっては見慣れた風景の数々も映画を彩る。市井の人々の日常を見つめつつ、濱口監督は神戸の街の多彩な表情も巧みに切り取ってみせた。「海や山、坂道、歴史的なものがあり、神戸は映画撮影には魅力的。人の多さもちょうど良い。何よりこの街で、役者やスタッフと、幸せな時間(ハッピーアワー)を過ごせた」

 ▼映画「ハッピーアワー」
 上映時間5時間17分の長編。看護師のあかりや主婦桜子らヒロイン4人が、離婚問題や夫婦関係に悩み、揺れ、自らを見つめ直す姿を静かに描く。昨年、シンガポール国際映画祭で「監督賞」、フランス・ナント三大陸映画祭で准グランプリの「銀の気球賞」「観客賞」に輝いた。

2016年1月1日付朝刊記事より抜粋

こうして生まれた濱口監督と神戸の縁。「ドライブ・マイ・カー」が米アカデミー賞で作品賞など4部門にノミネートされたのにとどまらず、日本映画で13年ぶりの国際長編映画賞に輝いた際は、神戸の関係者も喜びに沸きました。

(2022年3月掲載)濱口監督 米アカデミー賞/「ハッピーアワー」撮影地 支援者ら喜び

 米アカデミー賞で濱口竜介監督の「ドライブ・マイ・カー」が、国際長編映画賞に輝いた。濱口監督はかつて神戸市内で「ハッピーアワー」(2015年)を撮影した縁があり、市内の支援者らは「映画の街・神戸に新たな伝統が刻まれた」と喜んだ。
 濱口監督を先輩と仰ぐ同市須磨区の映画監督・野原ただしさん(38)は「3時間の長い作品にこだわりを感じる。3時間があっという間に過ぎる魅力がある。演出はもちろん脚本、編集などが絶妙にマッチして選ばれたのだろう。さすがです」とうなった。
 ハッピーアワーは共同脚本を担い、ともに神戸に住んで製作した。野原さんはそのまま移住し、自身のデビュー作も神戸で撮影した。「濱口さんと映像に生きる風景について話し合い、自分の作品に生かせた」と感謝する。
 「人物、街の魅力を見る才能にたけている」と話すのは、同市長田区の食肉販売会社専務の正岡健二さん(74)。地元の文化活動に取り組む中、同区の神戸映画資料館の紹介で濱口監督と知り合った。
 ハッピーアワーの製作では、一緒に長田を歩いて撮影スポットを視察した。「下町を気に入ってくれて地域の人ともよく飲みに行った。出演者も地元から選んでくれた」と喜ぶ。「神戸の魅力を知り、神戸から羽ばたいてくれた人。地元にとっても栄誉です」と笑顔を見せた。
 ハッピーアワーに出演した同市須磨区の詩人・福永祥子さん(77)は、詩集の帯にコメントを寄稿してもらう仲で「短いお付き合いで私の創作観を理解してくれた。素晴らしい洞察力だった。アカデミー賞は通過点と思う」。
 同資料館の支配人・田中範子さん(52)は、濱口監督の東京芸大大学院の修了製作の上映をきっかけに交流してきた。「自分流で活躍の場を広げられた。神戸にいた時はトークショーなどで使い倒しましたけど、これからは気軽に頼めませんね」と苦笑していた。

2022年3月29日付朝刊記事

実は、濱口監督と神戸の縁は、これにとどまりません。濱口監督が東京芸大大学院で師事していたのが、映画監督の黒沢清氏。黒沢監督は神戸出身で、神戸を舞台にした映画「スパイの妻」(濱口監督も脚本に参加)で2020年、ベネチア国際映画祭の銀獅子賞(監督賞)を受賞しました。

この2人の貴重な「師弟インタビュー」の記事2本を、最後にお届けします。

(2021年12月掲載)「映画と神戸 未来への視線」㊤

黒沢清監督(左)と濱口竜介監督。映画ロケ地としての神戸の魅力など意見を交わした=2021年12月撮影、東京都内

 神戸にゆかりのある映画監督2人がこの2年、国際舞台で大活躍した。神戸を舞台にした「スパイの妻―劇場版―」でベネチア国際映画祭銀獅子賞の黒沢清監督(66)は神戸出身でもある。神戸で撮った「ハッピーアワー」が海外飛躍の第一歩だった濱口竜介監督(43)は「ドライブ・マイ・カー」でカンヌ国際映画祭脚本賞、「偶然と想像」でベルリン国際映画祭銀熊賞を受けた。東京芸大大学院では教授と学生だった2人に映画と神戸を語ってもらった。

▼国際舞台で
 ―コロナ禍で厳しい状況が続いた2年でもあったわけですが。
 黒沢 「スパイの妻」の撮影はコロナ前だったが、昨年、ベネチアの授賞式の時は感染が広がっていたので現地には行けなかった。なので、この2年は久しぶりに時間の余裕があり、今後、どうしていくかあらためて人生の計画を立てていたところ。幸か不幸か映画監督には定年がない。ただ老後の蓄えもないけど。
 濱口 「ドライブ―」と「偶然と―」の2作は昨年、緊急事態宣言と緊急事態宣言の合間を縫うようにして撮影した。完成できるのかどうか、ストレスを感じながらも活動的に過ごした2年だった。
 ―海外の映画祭の位置づけは。
 黒沢 二十数年前、僕が映画祭に呼ばれ始めたころは、すでに北野武監督や塚本晋也監督が道を切り開いてくれていたので、日本映画全体がちょっとしたブームという感じだった。「Jホラー」という新しい分野も生まれた。「自分のやってきたことは間違っていなかった」と、自覚できたのも大変うれしいことだった。
 濱口 国際的な賞をいただいた最初が、神戸で2015年に撮影した「ハッピーアワー」。5時間17分という長さだけれど、自分にとって最初の劇場公開作品になった。演技経験のない女性ばかり4人が主役。彼女らがその年のロカルノ国際映画祭(スイスで開催)で最優秀女優賞を受けるなどした。その後、ちょぼちょぼ、いろいろな映画祭に呼んでもらえるようになった。
 ―濱口作品の海外での認められ方は?
 黒沢 20年前は日本映画は「日本人監督」「日本特集」といったくくりに入れられることが多かったが、今、濱口は純粋に作家として招かれている。それも「賞を取るかも」「取るなら何賞?」と、最初から期待される。すごいこと。その分、プレッシャーは大きいだろう。
 濱口 インディーズ作品の「ハッピーアワー」は、海外で評価されると思ってもみなかったので、受賞が心の支えになった。初の商業映画で、テレビ局や映画配給会社など数社が製作委員会に入った「寝ても覚めても」(18年)は、純粋に日本の観客に向けて作ったのだけれど、カンヌに呼ばれ、驚いた。そして再び自主制作のような小編成のスタッフで作った「偶然と―」がベルリンで、これまでの集大成として臨んだ「ドライブ―」がカンヌで受賞し、驚くとともに本当にありがたい気持ち。

▼作家性の評価
 黒沢 「ドライブ―」がヨーロッパで高評価だったのは想像できるが、アメリカでも支持され、さまざまな批評家賞を受賞し、米アカデミー賞まで視野に入っていて驚くばかり。でも振り返れば、その兆候はこのところのアカデミー賞にすでに表れていた。今年の「ノマドランド」、昨年の「パラサイト 半地下の家族」、一昨年の「ローマ/ROMA」など、作家性を前面に出した作品が注目されるようになっている。正直に言えば今頃になって? という思いもあるが。
 濱口 韓国の「パラサイト」が穴をこじ開けてくれたと思う。アジア映画でも面白いものは面白いんだと。
 黒沢 「パラサイト」は最初、思い切って娯楽性を意識したのだろうと想像していたが、実際に見てみると、「これ、いつものポン・ジュノ(監督)じゃん」。つまり作家性丸出しで驚いた。「ドライブ―」はさらに純然たる作家映画。濱口が敬愛するアメリカの代表的作家監督ジョン・カサベテスは、日本やヨーロッパでは評価が高かったが、本国では全くだった。ようやくその価値が濱口のおかげでアメリカ人にも理解される日が来るかもしれない。カサベテス作品の常連俳優で、妻でもあるジーナ・ローランズは存命だから、夫と同じ作り方の濱口が評価されるのを見たら、どんなに喜ぶか。
 ―濱口監督は「ドライブ―」の受賞インタビューで原作の村上春樹さんの人気が大きいと謙遜されていた。
 濱口 謙遜ではない。どの国に行っても村上さんとの関係や彼の映画への感想を問われるから。村上作品が持つある種の癒やしの要素に今のアメリカがはまったのかも。
 黒沢 人気の原作がある場合、たいていその原作のファンを裏切らないよう配慮した作りになるだろうけど、そうではない、純粋な濱口作品にするのだという狙いは最初からあったの?
 濱口 それは確かにあった。この企画だったら、これまで自分がやってきたことを生かせると。プロデューサーの山本晃久さんが大の春樹ファンで、彼のジャッジが基準となった。彼が言う範囲で自分の色も出していこうとしていた。

▼CGの使い方
 ―黒沢作品にあって濱口作品にないもの。一番分かりやすいのがコンピューター・グラフィックス(CG)です。

 黒沢 まず予算の制約。「スパイの妻」は超高解像度の8Kカメラで撮ったので、8K解像度のCGを作るとすると予算が大変。だから基本的には使わなかった。デジタル技術で画面から消したものはあるが。1940年代という設定だったので、CGを使わないで済むロケ場所が見つかるかどうかが鍵だった。旧グッゲンハイム邸(神戸市垂水区)と出合ったのは奇跡的。古く美しい洋館で、なおかつ日常的な気配が残っている。こんな建物は日本中探しても他にないと思う。
 濱口 黒沢さんがCGを使うか否か、決めどころはどこに?
 黒沢 今、それが目の前で本当に起こっているように撮りたい。でも現実にそれができない。じゃあCGを使うか、ということになる。ただ、この「本当に起こったら」を想像するのが結構大変。誰も見たことがないことを俳優、スタッフみんなでひねり出していく。
 濱口 黒沢さんの「叫」という作品に医師が落ちていく場面があって、学生時代、ぼくら6人いたゼミ生が「あれはどう撮ったんですか」と聞くと、「こうしてこうしてCGで撮ったんだ」と。
 ―濱口さんはどんな学生でしたか。
 黒沢 文才のある人だと思った。脚本を書いたら相当のものになるだろうとも。ある映画を見せてみんなに感想を書いてもらったら、濱口はきちんと分析し、立派な映画評にしていた。強固な自分の文体を持っていて、それが見事に現在でも脚本作りに生かされているのだろう。
 濱口 フランスのホラー映画「顔のない眼」だった。今、脚本を書くとき、黒沢さんの教えで常に意識しているのはまず「せりふが3行を超えたら、生身の人間としてはおかしい」。これに関しては禁を破ることも大いにあるが。二つ目が「登場人物の行動に社会はどう反応するか考えろ」。整合性がなければいけない。
 黒沢 濱口の場合は何度も台本を読ませて俳優の体にたたき込ませる演出だと聞いているけど、それは撮影現場で俳優に脚本の変更を許さないという狙い?
 濱口 脚本が出演者に与える影響は大きいと改めて思ったのが「ハッピーアワー」だった。演技経験のない人が演じるので、その人たちに「演じたいな」と心から思ってもらえるような、演じることによって力づけられる脚本にしないと。だから本読みの段階では、出演者の、そんな言い方はしません、といったような意見も取り入れた。
 
▽くろさわ・きよし 1955年神戸市出身。六甲中学・高校(現六甲学院中学・高校)から立教大へ。在学中に8ミリ映画を撮り、「神田川淫乱戦争」でデビュー。「回路」(2000)でカンヌ国際映画祭国際批評家連盟賞。「トウキョウソナタ」(08)で同映画祭「ある視点」部門審査員賞。「岸辺の旅」(15)で同部門監督賞。フランスで「ダゲレオタイプの女」(16)、ウズベキスタンで「旅のおわり世界のはじまり」(19)を撮影。

▽はまぐち・りゅうすけ 1978年神奈川県出身。東京芸術大学大学院の修了制作「PASSION(パッション)」(2008)をサン・セバスチャン国際映画祭、東京フィルメックスに出品。「ドライブ・マイ・カー」でカンヌ国際映画祭脚本賞、ニューヨーク映画批評家協会賞、来年発表の米アカデミー賞国際長編映画賞部門の日本代表。ベルリン国際映画祭銀熊賞を受けた「偶然と想像」が公開中。

ハッピーアワー〉 ワークショップに参加した演技経験のない女性4人を主演に起用、神戸を舞台に、それぞれの日常を描いた。

ドライブ・マイ・カー〉 妻を亡くした演出家が、彼の運転手となった女性との出会いをきっかけに過去と向き合う。原作は村上春樹の短編集「女のいない男たち」に収められた同名小説。別の収録作の要素も加えた。

スパイの妻〉 1940年代の神戸が舞台。太平洋戦争開戦前に偶然、日本軍の犯罪行為を知り、正義感から国際社会に訴えようとする実業家とその妻の物語。 

2021年12月31日付朝刊記事

(2022年1月掲載)「映画と神戸 未来への視線」㊦

映画「スパイの妻」で主人公の住まいとして撮影に使われた旧グッゲンハイム邸=神戸市垂水区

 東京芸大の大学院映像研究科で師弟関係にあった黒沢清監督(66)と濱口竜介監督(43)。作品のスタイルは違うけれど、どちらも神戸で映画を撮ったという共通点がある。神戸での経験、そしてコロナ禍に見舞われた映画の現状と今後についても語り合ってもらった。

▼物語の舞台
 ―黒沢監督は神戸出身ですが、関東出身の濱口監督はなぜ、縁のない神戸で撮影を?

 濱口 東日本大震災の後、東北でドキュメンタリーを3本撮った。それで東京でなくても映画は撮れる。次は関西で撮りたいと、最初は京都でと考えたのだが、神戸の協力者から強力に誘ってもらい…。2013年から神戸に住み、演劇ワークショップを担当、その参加者を中心に「ハッピーアワー」を監督した。神戸でなく、京都だったら、その後の作風が変わっていたかも。
 黒沢 神戸に住んで撮ったことが作品に何か作用した?
 濱口 実際に住んだということが大きかった。なんということもない道を歩く、そんな場面にもリアリティーが出せる。山に登っても、海を見ても。匿名の土地ではない、今、ここ神戸に暮らす人のリアルな物語になったのではないかと思う。
 黒沢 僕は神戸に生まれ育ったので客観的に見るのが難しいが、神戸は地方らしい何かがあるわけでも、東京のような中央性があるわけでもない。そういう意味で、ほどよく日本全体を代表する抽象的な場所に見えるのかも。どこから見ても京都は京都なのと違い、「ここは神戸」という風景になりにくいのがいい。こういう場所でこそ、普遍的なドラマが生まれるのかも。
 濱口 「ハッピーアワー」の場合、ワークショップ参加者に生活を語ってもらううち、自然と彼女らが暮らす神戸が背景として浮かび上がってきた。
 ―濱口監督が脚本作りで参加した黒沢監督作品「スパイの妻」は1940年代の神戸が舞台でした。
 濱口 当時の神戸の様子を調べ、「新開地のスケートリンクで人が滑っているところから始まる」といったふうに、今、そこにないものも描いた。
 黒沢 40年代のスケートリンクは無理でしょう、予算的に(笑)。脚本を好きなように書いてくれたが、それをどう扱うか、決めるのは監督の仕事。少なくとも主役2人には神戸弁をしゃべらせたくなかったので、横浜から引っ越してきたことにした。
 濱口 黒沢さんの作品に関西弁、想像がつかないな。
 黒沢 神戸は生まれ育った街として好きだし、ロケ地としてもとてもいい。でも神戸の物語を撮りたいと思ったことは一度もない。途端に自分の話になってしまいそうなので。むしろ自分はできるだけ消して作品を成立させたいといつも考えている。
 ―基本的に標準語を使う理由ですね。
 濱口 僕は神奈川生まれだけれど、親の仕事で2年に1度くらい引っ越していたので、特定の土地に対する執着がない。それに、引っ越し先で「標準語しゃべってる」と指さされ、僕にとっては標準語は抑制と結びついている。
 黒沢 大学で東京に行ってから標準語を使うようになり、少なくとも映画については関西弁で考えることができなくなった。僕にとって関西弁は18歳までの言葉。だから映画で関西弁をしゃべった途端、隠していた自分自身をさらけ出すようで不安になりそうだ。

▼コロナとフィクション
 ―コロナが創作に与える影響は。

 濱口 観客からは見えないところだが、撮影現場も変化を強いられている。身体接触を伴うことが多いのでマスクをなかなか外せない。いったいいつまで着けたらいいのか。
 黒沢 現代の日本が舞台で、俳優にマスクを着けさせると非常に生々しくなる。ドキュメンタリーならそれでいいが、フィクションの場合、通行人がマスクをしている分には見過ごせるとしても、主役がマスクだとすごく邪魔になる。役の人物ではなく、今を生きている俳優がコロナ感染を防ぎつつ、演じているんだな、と思われてしまう。ただ、この状況が5年10年続いたら、何がフィクションのリアリズムなのか分からなくなってくるのかな。
 濱口 フィクションのリアリズム。まさにクロサワイズム。
 黒沢 3密も濃厚接触も、撮影の現場には当然ある。具体的なガイドラインがあるわけじゃなく、注意しながらやるべきことをやっていくしかない。
 濱口 映画をはじめ、芸術は不要不急という声も聞こえてきた。だが何が不要かは、それぞれが置かれている状況によって違うので、あまり意味ある言葉だとは思えない。不急についても、芸術に経済的価値があるかどうかは、今ここでの価値観では測れない。それはすぐには消費されないし、だからこそ時間に耐えうる。不急は芸術の本質なのでは。

▼映画館か配信か
 ―映画館も大変でした。

 黒沢 営業停止を強いられた。中でもミニシアターは、コロナの何年も前から、そこでしか見られないようなマイナーな作品に関心を持たない人が増え、苦戦してきた。だからこそ濱口の映画がミニシアターで上映され続け、ヒットもしてほしい。濱口の作品を通してミニシアターの魅力を再発見してくれる人がいたら、それこそ撮ったかいがあったということだろう。
 濱口 「偶然と想像」は全国50館で一斉に公開したが、ミニシアターは映画通が行くところだと気後れする人がいるのも事実。時間的・空間的制約があって映画館に行けない人もいるので配信でも見られるようにした。配信と映画館、それぞれの長所、便利な部分を生かして共存していかなくては。
 黒沢 映画はなくならないと信じているが、絶対になくならないと思っていたフィルムからアッという間にデジタルに置き換わったのを考えると、映画館が消え、配信だけに、ということもあるかも。
 濱口 昔、劇場上映を想定せずに作った作品が映画館の大スクリーンに映し出され、いろんなアラが見つかって恥ずかしい思いをしたことがある。たとえ家で見る配信が主流になっても、大画面、大音響で見られて恥ずかしくないような作品を作っていきたい。
 黒沢 1960年代にも、シネスコのような大画面向きの映画が製作されるようになったのに、予算が減らされ、70年代の映画はスカスカなのが目立った。今も高解像度の規格を使うIMAXシアターの増設など、大画面で楽しもうという動きはある。そこではハリウッドの大作がかかっているわけだが、邦画でIMAXに耐えうる作品を作ることが可能なのかどうか。もちろんアニメーションならできそうだが。
 濱口 膨大な製作費の大きな映画か、自主制作のような小さな映画か、両極端になっている気がする。
 黒沢 僕たちはその中間のサイズの映画を作ってきた。「スパイの妻」も「ドライブ・マイ・カー」もまさにそのサイズ。大作でも低予算でもない、ちょうどいいサイズの映画。そこにはまだまだ可能性が残されていると思う。

2022年1月6日付朝刊記事

「スパイの妻」の撮影に使われ、黒沢監督が「出合ったのは奇跡的」「こんな建物は日本中探しても他にないと思う」と語った旧グッゲンハイム邸については、この「うっとこ兵庫」の記事「迷い込む愉楽 魅惑の『路地』」でも少し触れています。

このインタビューは2021年末に行われたので、お二人のやりとりからは、映画業界が苦境にあえいでいたコロナ禍の空気も色濃く感じられます。

一方で黒沢監督が、今や若き名匠となった濱口監督の成功を喜びつつ、「濱口は-」と呼び捨てにしているのが、いくつになっても変わらぬ「先生と生徒」の関係を表しているようで何だか心が温まります。

〈ぶらっくま〉
1999年入社、神戸出身。
上記のインタビュー記事にもありましたが、濱口監督の「ドライブ・マイ・カー」は、村上春樹さんの短編小説を原作としています(映画と同名の短編を含め、計3編の小説の要素を取り入れたとされています)。ただ映画と小説の両方をご覧になった方は分かるように、村上作品のエッセンスを生かしつつ、全く独自の映画に仕立てられています。映画では赤のサーブ(という車)が印象的で、あまり車に興味のない私も「かっこいいなあ」と思いましたが、これも原作では設定が少し違いました。原作と脚本の差異に着目するのも楽しいですね。