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世間力という日本の秘密兵器

 日本の文化として「世間力」をもっと意識すべきじゃないかとこのところ思っています。

 新型コロナウイルス感染拡大の中、日本は海外ほど強制的な都市封鎖をしませんでした。でも、結果的に欧米より感染を抑えられています。

 今後のことを考えて強制力のある法律を作った方がいいという議論もあります。日本人はなぜそれほど縛られたがるのでしょう。

 それでなくても、今回の緊急事態宣言下、県境を越えて移動する車に投石するなど、過度な「自粛警察」があったと報道で目にします。

 日本は同調圧力が強い。あえて法律で縛らなくても、自主的に「世間様」と合わせる見えない強制力が社会にある。

 こうした無限の圧力を避けて明文化するための法律とすれば、それはひとつの考え方。自粛警察と公的権力、どちらに監視されるのがましかという、究極の選択のような気もしますが。


 以下に紹介する18年前のこの文章も、「世間学」の知見を引用しつつ、欧米の個人主義と対比して、日本の独特さを指摘したもの。

 なかでとりあげている、「世間」を動かすのが「水」だという学説はユニークで、ぼくは今でも好きな説です。

 せっかくそれを紹介したのだから、世間における「水」のはたらきにこだわって、最後のオチまで引っ張った方が文章としては流れましたね。

 世間と個人の対比なのか、日本社会(「世間」)における「水」の役割なのか。焦点を絞り切れず、消化不良なまま文章が終わってしまいました。

 文章を書くにあたって、ぜひ紹介したいエピソードでも、思い切って切ることも必要だということを教えてくれる事例です。


 それにしても。


 自粛を(外部から)要請する、という歪んだ事態を見ていると、日本における「世間力」のはたらきについて、あらためて思索を深めてみる価値を感じています。


■ ■ ■


相次ぐ議員辞職、決断の背景に「世間」あり?

日経ビジネスExpress2002年5月13日掲載

 議員辞職が相次いでいます。秘書に関する疑惑の存在などが共通するせいでしょうか、たとえば「監督責任を痛感し、道義的、政治的、社会的責任をとる」という、ある議員の辞職コメントを読んで、さて誰の言葉か推し量ることができるでしょうか。
 加えて、やはりよく見かける「私には直接関係ない」という言葉も並べてみましょう。どうも政治家の辞職理由は、似たような構造になっていると気づきます。つまり「自分は正しい」けれど「世間に迷惑をかけた」から辞職する。
 日本に「個人」という言葉が生まれて百年あまり。政治家の意思決定においては、いまだに個人より世間が優先するのだと実感します。

 世間学を提唱する共立女子大学の阿部謹也学長によれば、日本に個人という言葉が生まれたのは1884年(明治17年)のことといいます。英語の訳として作られたのですが、言葉だけではなく、それ以前の日本には、ばらばらの個人という概念もありませんでした。村という共同体の一員、家という組織の一員としてしか自己を認識していなかったのです。「個人」が意識され始めるのは、職業や住居を自由に選択できるようになり、都市が発展したことで農家の子でも田舎を出て自由な生活ができることが実感されるようになってからのこと。
 それ以前、人はみな「世間」の一員でした。この世間における、紛争解決の手段について、秋田経済法科大学の瀬田川昌裕教授がユニークな指摘をしています。「水」が用いられていた、というのです。
 世間の「水」は、一般の水と同じく上から下へ流れます。紛争が起こるとたとえば村の長である仲裁者が当事者の間に入って、「水」を向けたり、「水」を差したり、あるいは「水」に流したりし、ときには「水」が入ったりするというわけです。

 政治家は自分の出処進退を決めるまでに、さまざまな人に出会ったり、メディアに登場したり、所属する党と相談したりしています。永田町という世間の流れを渡りつつ、「水」の流れを読み、「上」から自分に都合のいい「水」が送られるよう調整しているのでしょう。
 世間と「水」は、多くの人が納得する合意を形成するために役立つこともあり、否定的にばかりとらえる必要はありません。とはいえ、世の中全般が欧米流に「個人主義」を重視し、自己責任をいう流れのなかで、いまも「世間」が強く機能しているやり方に、どこか違和感を感じるのは仕方のないところでしょう。

ゼロ年代に『日経ビジネス』系のウェブメディアに連載していた文章を、15年後に振り返りつつ、現代へのヒントを探ります。歴史が未来を作る。過去の文章に突っ込むという異色の文章指南としてもお楽しみください。