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ライフワークを生きる私たち 第2回:演劇作家 本橋龍 前編「勉強も運動もまったくできず、演劇だけが残った」

「ライフワークを生きる私たち」では、自分らしい生き方をしている人を取材しています。

今回は、演劇作家の本橋龍さんを取材しました。彼は高校時代から演劇を始め、現在は小演劇の脚本家・演出家として活動しています。

2022年にはプライベートで結婚、第一子誕生というライフイベントを経験した本橋さん。前編では、演劇作家とは何をしている人なのか、なぜ演劇を始め、続けているのかをお聞きしました。

さらに後編では、商業的に成立しづらい「小演劇」というジャンルで活動しながら生活とライフワークをどうやって両立しようとしているのか、また最近取り組んでいる「無理しない演劇のワークショップ」について語ってもらいます。
(後編は後日公開予定)


演劇作家とは、集団生活の班長みたいなもの

ー演劇作家という肩書について教えてください。

本橋:実は「演劇作家」という呼び方は一般的ではなくて、僕のやっている仕事は「劇作家」と「演出家」という2つの肩書を使うことが多いです。

簡単に説明すると脚本を書くのが劇作家、演出するのが演出家ですね。僕はどちらか片方に力を入れているわけではなく、両方同時にすることが多いので、ひとまとめにして「演劇作家」と名乗っています。

ー具体的に演出家は何をしているのですか?

本橋:舞台の演出というのは、映画でいう映画監督をイメージしてもらうとわかりやすいと思います。出演者やスタッフさんにプランやイメージを伝えて、やってもらう役割です。

僕が関わってるのは小劇場というジャンルで、いわゆるミュージカルや2.5次元のような商業的な演劇とは違って小さな規模でやっています。そのため、予算も少なくて、演出家という役割がやる範囲は広くなってきます。

やっていることを一口に説明するのが少し難しいのですが、集団生活の班長みたいな感じです。

ー演出家は演技指導もするんですか?

本橋:演技の指導はあまりしないですね。最近は、演技の指導をする演出家が少なくなっている印象です。

一昔前は役者は劇団に入って、トップの演出家に揉まれて成長していくっていうストーリーがよくあったのですが、そもそも今は劇団という集団もすごく少なくなっています。

近年「プロデュース公演」といったものが増えました。プロデュース公演は、主催の方が役者やスタッフにオファーして、1つの企画が終わったら解散するという仕組みです。そこでは演技指導をするより、「プランを伝えてやってもらう」というスタイルが多いのかなと思います。

「俺たち劇団になろう」と言うのが恥ずかしくて、劇団は立ち上げていません

ー演技指導はしていないとのことですが、出演者の方の演技のトーンを調和するような秘訣がありますか?

本橋:僕は「ウンゲツィーファ」という演劇ユニットをやっていて、その公演をする際に出演していただく方は、既に関係性がしっかりできている方にオファーすることが多いですね。フィーリングが合いそうな方と一緒にやって、合わなければ離れます。

ー劇団じゃないからこそ、自由なんですね。

本橋:でも、最近はバンドを組むみたいにチームを組んで演劇をやっていくことへの憧れも出てきました。

劇団を立ち上げようかというタイミングもあったのですが、責任を追いきれないという思いからできずにきました。今、ほとんど劇団員と言っていい方が3名ほどいて、その方々と常に一緒にやっています。その方達に「俺たち劇団になろうぜ」って今さら言うのも恥ずかしいので、劇団にはしていません。

ただ、歳を重ねれば重ねるほど、よくわからないひとまとまりの集団がやたら魅力的に見えてきました。ある種の家族のように、括られて逃れられない状態でいることも時には大事なのかなぁなんて思っています。

照明ならラクだと思って高校の演劇部に入った

ー演劇を始めたきっかけを教えてください。

本橋:演劇は、高校の部活で始めました。たまたま高校で最初にできた友人と「演劇部っていうのがあるから入ってみようぜ」というノリで入っただけです。

高校の演劇部はちょっと有名なところで、毎年演劇の大会で関東大会に行ってる強豪校だったんです。そもそも演劇の大会ってなんだよって思うような、何も知らない状態で行ったんですけど(笑)

部活は何か強制的に入らなくちゃいけなくて、照明操作とかなら楽なんじゃないかなぁくらいの軽い気持ちで入りました。

ー高校卒業した後もずっと演劇を続けてきたんですか?

本橋:はい、そこからずるずると続けてます。

高校卒業後は、一応、演劇を勉強できる大学に行きました。ちょうど僕が入学する年に演劇コースと演劇サークルができたんです。

ただ、学校に劇場ができるって言いながらずっとできなくて、演劇系の授業もまだほとんどなくて。大学がそんな感じなので、明治大学で演劇をやっている方々※と出会って一緒に演劇をやるようになりました。

※明治大学には演劇を学ぶ演劇学専攻がある。

勉強も運動もできなくて、やりたいことが何もなかった

ー演劇を勉強できる大学に進学したってことは、高校生の時点で演劇をやりたいという意識があったのでしょうか。

本橋:そうでもないんですよね。何もなかったんですよ、やりたいことが。

進路どうするんだって時に、本当になにもなくて、演劇以外に何かやれることが思い浮かばなかった。だから、演劇をガッツリ勉強しようと思って、勉強して早稲田とか日芸※に行く気もなく。たまたま割と身近な大学で新しいコースができるから入ってみたら?と言われて、じゃあそこに行こうと思っただけです。

※早稲田大学には演劇を学ぶ演劇映像コースが、日本大学芸術学部(日芸)には実践的なスキルを中心に学ぶ演劇学科がある。

ーやりたいことがない場合、少しでも偏差値の高い学校へ進学し、少しでも条件の良い会社に就職しようと考える人も多いかと思います。

本橋:高校の時点で、いわゆる一般的なところで働こうって感じはなかったです。

すごく成績が悪かったんですよ。中学の時から勉強ができなくて、高校に入学した時は補欠合格でギリギリ入学してるんです。運動も全然できなくて、中学の頃はちょっといじめられるようなノリもありました。

不良みたいな奴らが多い中学で、めちゃくちゃ嫌いなその不良たちより頭悪いっていう(笑)だから劣等感がひたすらあって、高校は中学の人たちがあまり行かないところを選んで最下位で入学して、高校でも成績悪くてギリギリ卒業できたんです。そんな感じなんで、勉強して大学に入ろうって気もなかったです。

今も演劇をやっていますが、演劇が好きで選んでやっているというより、演劇だけが残ったという感覚です。

30年後、40年後に誰が残っているかという戦い

ー学生演劇をやっていて、卒業後も続けている方は一人握りかなと思います。
本橋さんが演劇を続けられた理由はなんでしょうか?

本橋:そうですね、一緒にやっていた演劇仲間が、大学卒業後に急にみんな一気に辞めていったなという印象を持っています。20代くらいは、周りが社会人になっていく中で自分は切り替わらずずっと学生時代と同じ感覚でいるぞ、という感じでした。

就職した周りに関しては「すごいな」とは思いますが、かといって自分が焦ることはなかったです。むしろ、周りが辞めていって自分が残れば、いい感じになれるのではと思っていました。

演劇を見る習慣のある観客の方々は少ないので、演劇は観客の奪い合いなんです。だから30年後、40年後に誰が残っているか、そこまで続けられるかという戦いでもあると思っています。

ー続けること自体が目的なんですね。

いじめから逃げるために培ったスキルが演劇で活きた

ーただ単に続けているのではなく、やはり演劇で突出するものがあるから続けられているんじゃないでしょうか。周囲への劣等感を持ちながらも、「自分は演劇ができる」と好感触を得た出来事はありますか?

本橋:最初に好感触を感じたのは、遡って高校時代になります。

中学生あたりってルックスや運動の出来不出来で人を見るじゃないですか。そんな時代に、僕は武器にできるものが何もなかったんです。だから、先ほど言ったみたいにいじめられる側になってしまいそうな時、笑いをとることでなんとか自分をガードしてました。道化になってやり過ごすような感じです。

その後、高校で演劇を始めたら、中学時代に培った僕の「人を笑わせる」ということをすごく褒めていただけたんです。それが自分の人生にとっては、本当に大きな経験だったんですよね。部活を引退する時に、その想いを部員みんなの前で打ち明けて大泣きしちゃうくらい。

ー演劇が、人より劣っていると思っていた自分を肯定してくれたんですね。

本橋:はい。その時から、演劇は誰も着目しないような「スキマ」を評価する場所なんじゃないかってことを感じていました。僕が演劇をやっている理由は、全部そこにつながります。

演劇を使って表現するものと、スキマを埋めていく感覚が重なってきたと自覚した時、このスタイルは自分にしかできないものかもしれないと思えましたね。

ー自分にしかできないものを自覚したのは、具体的にはいつですか?

本橋:具体的には『転職生』※っていう演劇をやった時です。会社を学校に見立てて、学校に転校生がやってくるように不思議な人が会社に転職してきて、周りが動かされていく話です。『風の又三郎』をベースにしました。

その劇は「こんな嫌な上司いるよね」「よくわからないアルバイトいるよね」という中小企業の内部を細かく描写したキャラクターで構成し、その人たちが色んなことに傷ついていながらも、一生懸命に生きていることを描きました。自分が作品を通して伝えられるものがあると一番自覚した作品です。

※『転職生』2018年2月28日〜3月4日 全9ステージ 王子スタジオにて上演

観にきてくれた後輩が、突然、目の前で泣き出したんです。

『転職生』

ー『転職生』を上演した時に、本橋さんの演劇的なスタイルが決まったんですね。

本橋:この公演は印象深いものでした。見てくれた方が熱を持って感想をくださって、公演も少し話題になって当日券を買うお客さんが列を作ってくださいました。

特に記憶に強く残っているエピソードがあります。

大学時代に演劇をやっていた後輩の方が、公演を観にきてくれたんです。話したことはあっても、そこまで親しくしていたわけではありませんでした。その方が、舞台が終わった後にずっと会場に残って僕の前にいるんです。帰らないのかなぁと思って見ていると、その人は何か言いたそうな様子でした。そして突然、僕の目の前で泣き出したんです。ずっと泣いてるんですよ。びっくりして「わー、大丈夫ですか」ってなったんですが、その方は劇を見て感極まってくれたみたいで。

その時は、自分なんてものがやってる劇で涙を流すようなことになって大丈夫ですか?って気持ちになっちゃいました。大層なことはやってないのにって。でも、観た方に感情を動かしてもらえるってことを真に受けて、俯瞰して見ると、少しは自分のやってることに価値があるのかもしれないと思えるようになっていきました。

ー本橋さんの劇のスタイルは、ご自身の生活の中にある個人的なことをピンポイントで描いているんですが、それが普遍性を帯びて見えて、多くの人が共感できるのが不思議ですよね。

本橋:フォーカスをグーッと絞って細かいところを映していくと、周りがボケて、やがて何が映っているのかも曖昧になってきます。フォーカスを絞ることで、普遍性を帯びてくるなと思っています。

ーそれで、日常の細かな感情を動かされる出来事を積み重ねてできた作品を、それこそスキマを埋めるような作品をやり続けていくことになるんですね。

本橋 龍(もとはし りゅう)
1990年生まれ。さいたま市出身。高校の部活にて演劇を始める。その後入学した尚美学園大学で演劇を学ぶが、2013年に大学を中退。実家から家出し、そこから自身の創作ユニット「栗☆兎ズ」で劇作活動を本格的に始める。2016年、江古田に居住し活動の拠点である「栗☆兎ズ荘」(木造二階建ての一軒家。後のウンゲ荘)を構える。8回の演劇公演を経て、ユニット名をウンゲツィーファに改名。
X(旧Twitter)/演劇ユニット ウンゲツィーファ

こばやし ななこ
1990年鳥取生まれ。明治大学にて演劇を学んだ後、スマホゲームのディレクターになりストーリー作りの基礎を学ぶ。退職後はフリーランスのライターになる。現在はライター活動の傍ら脚本執筆も行っている。ただの映画好き。まぁまぁ自由に生きている人。
X(旧Twitter)/ポートフォリオ


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