先日『金閣寺』は天皇ではないと書いた。
そもそも三島由紀夫の天皇論というものは複雑で解り難い上に、その時々で言っていることがふらふらと変化するので「金閣寺=天皇」という誤解が生まれたという一面もあろうが、三島由紀夫の人物を論ずるのに、三島由紀夫の主要作品の解釈だけで押し切ろうとする方法論にそもそも破綻はないだろうか。
例えばここでは天皇制というものがただの言葉であり、比喩に過ぎなくて、交換可能なものであることがはっきり述べられている。無論のちに「絶対者が存在しなければ創り出さなくてはならない」などと言われていることとはずれがある。ずれはあるが、そもそも絶対者の存在を認めていないという点では合致する。
そしてここで言われている「なんのために命を捨てるか」という行動のロジックは目的ありきではないことが丁寧に論理立てられる。
林の「そうですか」は「さっぱり分からない」と翻訳してもいいだろう。
幽顯とは平たく言えば「この世とあの世」のことである。天皇はこの世とあの世を行き来できる存在であるという考え方もある。これは幽顯の解釈にもよるが実際に天皇の祖先が生きたままあの世に行ったことになっているので「そんな馬鹿な」で片付けられる問題ではないようだ。
どうも妙なことを言っているのは三島の方で、「あらゆる人にそういうことを求めても無理でしょう」というのは当たり前の話で、みんなが恍惚感の中で世界に開かれたら、それこそ新興宗教の集団自殺になってしまうし、飽くまで比喩として言えば一億火の玉玉砕になってしまう。
しかしハイデッガー迄持ち出してくる三島由紀夫が真剣であることも確かである。平田篤胤と云えば日本こそが扶桑国であり、三皇五帝の本国だと説いた国学者である。しかし平田篤胤も大真面目に持ち出している。
そして言っている事はさっぱり分からないが行動には目的がないということだけは確かだ。ここを取り違えて三島由紀夫論を書いてしまうととんでもない恥さらしになる。三島由紀夫は「お国のために」死んだわけではない。
神のまにまに、これが『葉隠』の「死ぬことと見つけたり」に直結するかどうかは別として、ハイデッガーでいいのなら、天照太神と須佐之男命の「契約」はどうでもよくなる。この「契約」も姉弟の近親相姦のように読めることもどうでもよくなる。なんなら神が存在しなくても惟神、紙のまにまにで行動できそうでさえある。
ハイデッガーの「脱自」はこれもまた極端にかみ砕いて言えば、「人間の内面は何もない、空っぽなので、外へでていくしかない」ということで、まさに中身がからっぽで何もない三島由紀夫にぴったりのアイデアだ。Ekstaseに恍惚、陶酔の意味があることもよくできた話だ。しかしよくできた話には用心しよう。
そうやすやすと「解った」と言ってしまわないことが大切だ。エクスタシーの時、日本語では「行く」と言い、英語では「來る」という。英語では出て行っていない。「脱自」していないのだ。
この話の少し前に三島は敢えて「言葉はインターナショナルではない」と明言している。従って恍惚感で開かれるという下りは日本と亜米利加はなんでもさかさま。道路のことはロードという程度の与太話に過ぎない。
しかし三島由紀夫の言っていることは出鱈目ではない。この話の流れを辿ってみると、
・朝起きて飯を食って仕事をして帰って寝た、という生活は歴史ではない
・西洋人は年を取ると隠居して公園で日向ぼっこをして幸せだというがそれは日本人の民族性には合わない
としてふつふつと戦後二十年の日本の生活水準の向上だけには満足できないもの、一応は成功と言ってみたものを突き崩そうという矛盾と云えば矛盾、葛藤と云えば葛藤のようなものが神風連に対する心酔と共に湧き上がってくる流れがあるのだ。
大学生でもあるまいにいまさらハイデッガーを持ち出してエクスターゼと言い、本居宣長や平田篤胤を持ち出してくる三島由紀夫は、例えば芥川龍之介の『素戔嗚尊』のように何かを探していたように見える。
芥川龍之介の小説の中でも一二を争う出鱈目な作品である『素戔嗚尊』を理解しようとした時、その一つの手立ては素戔嗚を三島由紀夫に重ねてみることだ。素戔嗚も三島由紀夫も生活水準の向上ではない何かを探していた。そのふるまいはいささか狂人じみている。
しかし三島由紀夫は大真面目である。
私も大真面目だ。芥川が真面目であったかどうかは謎だ。
これであの国の債務保証した日本が詰んだことが確実に。