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これから

これから

                        

「焦る焦る」と歩きながら口の内で云った。
 飯田橋へ来て電車に乗った。電車は真直に走り出した。代助は車のなかで、
「ああ動く。世の中が動く」と傍の人に聞える様に云った。彼の頭は電車の速力を以て回転し出した。回転するに従って火の様に焙って来た。これで半日乗り続けたら焼き尽す事が出来るだろうと思った。
 忽ち赤い郵便筒が眼に付いた。するとその赤い色が忽ち代助の頭の中に飛び込んで、くるくると回転し始めた。傘屋の看板に、赤い蝙蝠傘を四つ重ねて高く釣るしてあった。傘の色が、又代助の頭に飛び込んで、くるくると渦を捲いた。四つ角に、大きい真赤な風船玉を売ってるものがあった。電車が急に角を曲るとき、風船玉は追懸けて来て、代助の頭に飛び付いた。小包郵便を載せた赤い車がはっと電車と摺れ違うとき、又代助の頭の中に吸い込まれた。烟草屋の暖簾が赤かった。売出しの旗も赤かった。電柱が赤かった。赤ペンキの看板がそれから、それへと続いた。仕舞には世の中が真赤になった。そうして、代助の頭を中心としてくるりくるりと焔の息を吹いて回転した。代助は自分の頭が焼け尽きるまで電車に乗って行こうと決心した。

十八

 うとうととして目がさめると向かいの席では髭のある人が水蜜桃を食べていた。
「食べませんか」と言うので代助は礼を言って一つ食べた。
 代助は髭のある人をどこかで見たような気がするが、何処で会ったのかどうも思い出せない。暗に相手も自分と同じような感じを持っていはしまいかと代助は疑った。そうして腹の中で髭のある人の返事を予期してかかった。ところが髭のある人はしばらく沈吟したあとで、「どうも君の顔には見覚えがありませんね。人違いじゃないですか」といったので代助は変に一種の失望を感じた。
「しかし吃驚しますね、東京は変って。電車の新しい線路だけでも大変増えていますからね。電車が通るようになれば自然町並も変るし、その上に市区改正もあるし、東京が凝っとしている時は、まあ二六時中一分もないといっていいでしょう」
 髭のある人は遠い所から帰って来て故郷の土を踏む珍らしさのうちに、異国の臭を隠さなかった。
 代助は何も言わなかった。
「電車へ乗ったら、乗るたんびに終点まで行ってしまうは、やっぱり天然居士で沢庵石へ彫り付けられてる方が無事でいい」
 そう云い切って、ほとんど鋭い表情のどこにも出ていない不断の顔をして代助を見た。
 代助は何も言わなかった。
「ああああ、もう少しの間だ」
 電車は終点の中野駅に着いた。終点である。引き返せば毘沙門前の家に戻るだけだ。まだ。まだ職業は見つからない。
「君、良かったらちょっと一緒に来ませんか」
 髭のある人のいう事は代助には曖昧だった。言っている言葉は解るが、その意味するところが模糊としている。第一、何か職業を求めなければならない。けれども代助の頭の中には職業と云う文字があるだけで、職業その物は体を具えて現われて来なかった。彼は今日まで如何なる職業にも興味を有っていなかった。結果として、坑夫となることも街鉄の技士になることも、ただ想い浮べるだけで、言葉の上を上滑りに滑って行くだけで、中に踏み込んで内部から考える事は到底出来なかった。
「職業をお探しと、呟いていらっしゃいましたね」
 中野の停車場を降りて、仲百人の通りを区役所の方へ行かずに、踏切からすぐ横へ折れると、ほとんど三尺ばかりの細い道になる。それを爪先き上がりにだらだらと上がると、まばらな笹原がある。その藪の手前と先に一軒ずつ人が住んでいる。髭の人の家はその手前の分であった。二人はまず風呂場へ行って水を浴びた。散々頭を冷したところで、代助はこの髭のある人が職業を斡旋するかのように言いながら、いつの間にか風呂場に連れてきたことに驚いた。それまで代助は餌の匂いに釣られる乞食のように何の考えもなく、髭のある人の後を突いて歩いた。
 下女の出した浴衣に着替えて洋室のテーブルに向き合うと、ようやく人心地ついた代助は、壁にかけられた額縁を眺めた。絵はマーメイドの図である。裸体の女の腰から下が魚になって、魚の胴がぐるりと腰を回って、向こう側に尾だけ出ている。女は長い髪を櫛くしですきながら、すき余ったのを手に受けながら、こっちを向いている。背景は広い海である。
「この人が笑っているのか悲しんでいるのか解りますか?」髭のある人は訊いた。
 人魚が人なのかどうかも、笑っているか悲しんでいるのかも代助には曖昧だった。
「しかし暑いね、こう暑くちゃやりきれない」
 代助が何も言う前から髭のある人は人魚の話を片付けた。
「それで君、職業を探しているそうじゃないですか。これまでは何を?」
「何をって、何もしちゃいません。本を読んだり、芝居を見たり、音楽会にも行きますが」
「財産はどのくらいあります?」
「財産なんてものは何もありません」
「それでどうやって生活します」
「生活できないから職業を探すのです」
「なるほど理屈ですね」
「君、教育は一種の権利かと思っていたら全く一種の束縛だね。いくら学校を卒業したって食うに困るようじゃ何の権利かこれあらんやだ。それじゃ位地はどうでもいいから思う存分勝手な真似をして構わないかというと、やっぱり構うからね。厭に人を束縛するよ教育が」
「だからといって糊口を探すのにただ電車に乗っていても全く駄目でしょう。精々攫徒に会うのが関の山です」
 髭のある人は下女に命じて軍鶏鍋を用意させた。良く冷えた麦酒が出てきた。こんな辺鄙な場所でも氷屋はあるらしい。代助は遠慮なく手酌で麦酒を飲んだ。代助は元来酒量に遠慮のない質であった。ある程度まで飲んで、それで酔えなければ、酔うまで飲んでみる人であった。髭のある人も酌はしなかった。
「ところで、あなたは何をなさっている方ですか?」と代助はミスター・しゃちほこのようなことを訊いた。
「新聞配達です」髭のある人は言った。
まんざら冗談のようにも思えなかった。髭のある人は殆ど九州色で、京都の公家だと言い出せばただ笑われるだけだと思われた。しかし新聞配達が教えてくれる職業は新聞配達だけであろうから、今更ながら代助はこの髭のある人についてきたことを後悔した。
「今、顔色が変わりましたね。新聞配達までも生き延びようとするくらいだからこんな猿でも出そうな中野くんだりにも住むのだなと思ったのでしょう。新聞配達をしたって、そこまで堕落するよりはましだ」
 髭のある人は別に不快の表情もなく、代助の心中を見抜いた。
「しかしね、いずれ三鷹あたりが住みたい街番付の横綱になるでしょう。麻布だの番町だのは見向きもされなくなります」
 三鷹と言えば本当に猿や猪や鹿や羚羊が走り回る田舎だ。中野まで落ちた男がさらに下を見出そうとして詭弁を吐いているのだとしか代助には思えなかった。
「どうしても私は世間に向かって働き掛ける資格のない男だから仕方がありません」
「新聞配達だって世間に働きかけているでしょう」代助は本来の調子の一割の力を取り返して理屈を返した。「新聞を個人に届けるということは十分世間に働きかけていますよ。ご高説を垂れる人とそれを記事にする人、配達する人はみな同罪でしょう。新聞なんて無暗な嘘を吐くもんだ。世の中に何が一番法螺を吹くと云って、新聞ほどの法螺吹きはあるまい」
「罪ですか…」
「そうです。新聞配達は罪悪です。そして神聖なものです。あなたはまだ本当の新聞配達というものを知らないのです」
「しかし職業に就いたことのない君がそんなことを言うのですか」
「職業に就いたことがないから言うのです。料理の味は料理人だけが評価するものではありません。新聞配達が罪悪か神聖か、そんなことは新聞を読んでいれば返って解ります。ただ朝晩新聞配達をしていれば、新聞を読む時間もないでしょう。そんな人には新聞配達のことはけして解かりません」
「そして君はこれからまさに新聞を読む時間もない人になろうとしているのですね」
 代助はこの髭のある人が自分と対等かそれに近い教育を受けた人ではないかと疑った。随分年上の様な態度もあるが、年齢はそう変わらないのではないかとも思った。
「あなたは幾歳ですか」と代助は訊いた。
 この問答が髭のある人にとってすこぶる不得要領のものであったようで、代助はその時底まで押さずにビールを飲み軍鶏を突いた。下女は鉄枴仙人が軍鶏の蹴合を見るような顔をして平気で聞いている。時間から云って、昼食を抜いて向き合った軍鶏は、膳を貪る人としての彼を思う存分に発揮させた。髭のある人は下女に麦酒のお替りを持って来させた。それから蒲鉾つけ焼が出てくる。小皿に盛った魚肉が出てくる。胃病の源因たる漬物が出てくる。麺麭もアイスクリームも出てきてどういう趣向か一向に見当がつかない。
 彼の頭の中は纏まらない断片的な映像のために絶えず往来された。その中には今朝見た兄の誠吾の顔もあった。どういう了見か驚ろいた様に代助を見た門野の顔も動いた。平岡の手紙もあった。その中身の細かい文字も浮かんだ。三千代と抱き合って耐えようという意志も働いた。その所作から起る手数の煩わしさだの、こっちの好意を受け取る時、相手のやりかねない仰山な挨拶も鮮やかに描き出された。すると忽ち赤い郵便筒も傘屋の看板も赤い蝙蝠傘も風船玉小包郵便を載せた赤い車も烟草屋の暖簾も売出しの旗も電柱も赤ペンキの看板も急に消えて、その代り肥った嫂の影法師が頭の闥を排してつかつか這入って来た。連想はすぐこれから行こうとする地獄の中心点になっている三千代に飛び移った。彼の心臓は麦酒のほろ酔いに任せて前後へ揺れ出した。
 が、実際は同じ源因がかえって代助をわがままにしている。代助は学校を卒業してから今日まで、まだ就職という問題についてただの一日も頭を使った事がなかった。出た時の成績はむしろ好い方であった。席次を目安に人を採る今の習慣を利用しようと思えば、随分友達を羨ましがらせる位置に坐り込む機会もないではなかった。現に一度はある方面から人選の依託を受けた某教授に呼ばれて意向を聞かれた記憶さえ有っている。それだのに代助は動かなかった。全く信念の欠乏から来た引込み思案なのだから三千代も逃したのだ。が、朝から晩まで気骨を折って、世の中に持て囃されたところで、どこがどうしたんだという横着は、無論断わる時からつけ纏っていた。代助は時めくために生れた男ではないと思う。法律などを修めないで、植物学か天文学でもやったらまだ性に合った仕事が天から授かるかも知れなかった。代助は世間に対してははなはだ気の弱い癖に、自分に対しては大変辛抱の好い男だった。
「君は細は…」
「細なら一人その口がなくもありませんが」
「二人いちゃ面倒だ」
「二人いたら…」
 髭のある人にそう言われてみて、どういう了見か驚ろいた様に代助を見た門野の顔が思い浮かんだ。いくら顔を見られても、それに頓着などしない質であったが、どうも先生は旨いよ、と門野が婆さんに話していた記憶が二人の女に結びついた。その時代助はこの論理中に、或因数は数え込むのを忘れたのではなかろうかと疑った。けれども、その因数はどうしても発見する事が出来なかった。代助は嫂の肉薄を恐れた。又三千代の引力を恐れた。恐れながらも堅気ではない女に子を産ませる未来まで考えてみた。平気で細君の尻のところへ頬杖を突き、細君は平気で代助の顔の先へ荘厳なる尻を据えた無礼も糸瓜もない未来が浮かんできて、その顔は見えないのである。
 どうして自分の存在には三千代が必要なのだろう。それに三千代はどうして平岡へ嫁に行ったのだろう。それは自分で行こうと思ったから行ったに違ない。しかしどうしてもあすこへ嫁に行くはずではなかったのに。そうしてこの自分はまたどうして嫂の肉薄を畏れ、芸者を選んだのだろう。それも自分が選んだからこそに違いない。だからこそ赤坂に留まったのだ。しかし自分はいまだかつて芸者を買おうとは思っていなかったのに。偶然? ポアンカレーのいわゆる複雑の極致? 何だか解らない…。
「ところで職業はいったいどういう方を御希望なんですか」
 実を云うと、代助には何という特別の希望はなかった。ただ相当の位置さえ得られればとばかり考えていたのだから、こう聞かれるとぼんやりした答よりほかにできなかった。
「すべての方面に希望を有っています」
 髭のある人は笑い出した。そうして機嫌の好い顔つきをして、学士の数のこんなに殖えて来た今日、いくら世話をする人があろうとも、そう最初から好い地位が得られる訳のものでないという事情を懇ろに説いて聞かせた。しかしそれは髭のある人の口から改めて教わるまでもなく、代助のとうから痛切に承知しているところであった。
「何でもやります」
「何でもやりますったって、まさか鉄道の切符切もできないでしょう」
「いえできます。遊んでるよりはましですから。将来の見込のあるものなら本当に何でもやります。第一遊んでいる苦痛を逃れるだけでも結構です」
「そう云う御考なら早速明日シキに行きますか」
「ええなるべく早い方が結構です」
 代助はこれで会見を切り上げて、朗らかな顔をして表へ出た。

十九









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