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近代文学2.0の中間報告

読んでる人いる?


 一応そろそろこれまでやってきたこと、これからやることを整理しておきたいと思います。

 この記事で述べたように近代文学2.0では「丁寧に読む」という信条によってこれまで、

・谷崎潤一郎の初期作品が極めて政治的なもの、体制批判的なものであり、ドミナとは捏造されるものであること
・夏目漱石作品もまた明治政府・明治天皇制に批判的であり、その粗筋がほぼ読み誤られたまま多くの人々に論われていること
・芥川龍之介作品もまた粗筋さえ読み誤られたまま多くの人々に論われていること
・三島由紀夫が平安以前の文学と繋がりながら、やはり「近代文学」であること

 などを論じてきました。その中でも最大のテーマは「芥川龍之介は夏目漱石をいかに継承したのか」ということになると思います。

 仮に芥川龍之介は夏目漱石を継承しなかったということになると、それはそれで大問題なのですが、芥川龍之介と太宰治の関係のような、あからさまな継承は確認できないというのが、現時点の判断です。

 その一方で三島由紀夫が反芥川文学に到達できず、「技巧ばかり巧くなつた職人的小説家の、猛烈な自己破産の欲求と見られないこともありません」と芥川を批判しながら、そのまま本人が自己破産してしまったように見えるところまでは確認できました。

 そしてさらに剣呑なところも見えてきました。天才、芥川が実はとんでもないぼんくらなのか、あるいは読者を徹底的に馬鹿にするために自分自身が馬鹿を装う道化作家なのではないかというところが見えてきました。

 それにしても読者の側は『万葉集』も『古今和歌集』も芭蕉も読んでいないこと自体は確からしく思えてきました。これでは今更私がnoteに何か書いても、一切何も伝わらない筈です。

 同じ文言が『万葉集』にあるということは、当然元歌との関係を見なくてはならないという私の考えは、殆どの人には単なる言いがかりとしか受け止められないようです。

 例えば「鹿」という文字が出来れば『万葉集』にある鹿の歌を全部確認しなくてはならないというわけではありません。しかし「かひやが下」と『万葉集』にちなんだのであれば、「かはづ」と「蟇」の違いの意味を見なくてはならないということです。

 あるいは芭蕉でさえ、……というよりこれまで文学というものはどこにも存在せず、理解もされず、継承もされてこなかったのではないかという気がいたします。

 正々堂々と芥川龍之介の「間違い(?)」が日々指摘されているのを目にしながら、それを当たり前のこと、何でもない日常なのだと受け流す杜撰さこそが、これまでの凡ての文学を無きものにしたものの正体なのではないでしょうか。

 芥川が『古今和歌集』の引用に気が付かなくても、『万葉集』を間違って引用しても、なんなら芭蕉の句を間違って引用し、付いていない句を付いていると言い張っても、これまで近代文学1.0の人々は「ふーん」とスルーしてきたわけです。

 天才にもたまには間違いはあるでしょう。しかしそれは「たまに」であるべきです。これだけ本当に間違っていたら普通は単なる馬鹿です。しかし読者はその馬鹿に気が付かないレベルなんですよね。つまり知性というものが殆どないということになってしまいます。

 どうですか?

 みなさんそんなに知性がないですか?




















 わりと真剣に疑問なんですよ。
 芥川が万葉歌を間違えていて驚かないですか?


















































 私は思うんです。驚かない人は今後一切文学には拘わらないでほしいと。そもそも関わる資格がないでしょうと。





















































































































































知ったかぶりはみっともない、という程度の感覚のない人は……、










































































































 つまり、まだまだこれからだ





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