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岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する110 夏目漱石『こころ』をどう読むか487 無理な話だ

 今回はもっと本が売れてから、第二弾として書く予定だったところを書いてみたいと思う。本当に人間と云うのはいつ事故に遭うとも限らないので、勿体ぶって待っている場合でもないと思うからだ。
 実際七年くらい待ったが、夏目漱石の『こころ』でさえ、誰一人理解できないのだから仕方ない。
 その勿体ぶって待っていたもののうち『行人』『道草』に関しては、既に明かした。

 一郎は父の子でない不安の中にあり、健三は自分が捨て子であることに気が付かない。この程度のことに気が付かないで、『行人』論や『道草』論を書いて来た人はこれを読むと決していい気はしないだろうが、それは耐えるべき事なのだ。そしてむしろ「ああ、そうか」と謙虚な一読者を目指せばいい。最悪なのはうすうす感づきながら自分を胡麻化すことだ。

 例えば『行人』は「塵労」で分裂していると書いて来た人たちは、四つの「いい加減なお使い」が見えていなかったことになる。
 例えば『道草』に実母が描かれないのは『硝子戸の中』に実母が描かれるからと書いて来た人は小説とエッセイをごっちゃにしていることになる。

 そんな誤読には何の意味もない。つまり柄谷行人の漱石論には意味がない。

 


余程目方の重いもの


 それは普通の手紙に比べるとよほど目方の重いものであった。並の状袋にも入れてなかった。また並の状袋に入れられべき分量でもなかった。半紙で包んで、封じ目を鄭寧に糊で貼り付けてあった。私はそれを兄の手から受け取った時、すぐその書留である事に気が付いた。裏を返して見るとそこに先生の名がつつしんだ字で書いてあった。手の放せない私は、すぐ封を切る訳に行かないので、ちょっとそれを懐に差し込んだ。

(夏目漱石『こころ』)

 この手紙の問題に関して鬼ノ頸でも獲ったように燥ぐ人たちがいる。「まあこれはご愛嬌と云うことですね」と漱石にマウントを取ろうとする。つまりそういう人たちには他の不思議が見えていないことになる。

 岩波はここに注を付けて、

「四つ折に畳」(一四九頁)むことも、「それを懐に差し込」(一四八頁)むことも困難なほどであることが指摘されている。

(『定本漱石全集 第九巻』岩波書店 2017年)

 と、やはり「どこかの誰かの意見」をつまみ典拠も示さないし、自身のポジションも明らかにしない。

 馬鹿ではなかろうか。とにかく羞恥心と云うものがない。

 ここにどんな意味があるものか。

 これまで私はこのことをさして取り上げるほどの問題ではないのではないかと考えていた。しかしどうもそうではないように思えて来た。『こころ』がこれまで以上にイロジカルな仕掛けに満ちており、矛盾と云ってしまえば矛盾のようなものを意図的に据えていることが見えてきたからだ。

 話者「私」が年齢的に無理ながらKの生まれ変わりのように仄めかされていること。あるいは、

 鎌倉の海水浴では話者「私」が全裸であるかのように仄めかされていることがどうでもよいことでないとしたら、やはりここで矛盾が拵えられていることもどうでもよいことではないのかもしれない。

 例えば乃木静子の殉死は矛盾だ。

これに対し夫人は、紋付正装で七寸の懐剣をもち咽喉の気管をパッと払い、返しを胸部にあて柄を枕にあて、前ふせりになって心臓を貫き、懐剣の切尖が背部肋骨を切り、切先は背中の皮膚に現れんとしていた。しかるに膝を崩さず少しも取り乱したる姿もなく。鮮血淋漓たる中に見事なる最期で、見るものの襟を正させた。

 これを作文と云う。こんなことができる素人はいまい。いかにも非科学的な話だ。しかし岩波の注釈者はその矛盾には気が付いていないのではなかろうか。

 私の考えはこうだ。

 どうも漱石は『こころ』という作品に無理なのか矛盾なのか判断のつかないことを無理やり持ち込もうとしている。
 例えば、

先生の命が流れている

 私は心のうちで、父と先生とを比較して見た。両方とも世間から見れば、生きているか死んでいるか分らないほど大人しい男であった。他に認められるという点からいえばどっちも零であった。それでいて、この将碁を差したがる父は、単なる娯楽の相手としても私には物足りなかった。かつて遊興のために往来をした覚おぼえのない先生は、歓楽の交際から出る親しみ以上に、いつか私の頭に影響を与えていた。ただ頭というのはあまりに冷やか過ぎるから、私は胸といい直したい。肉のなかに先生の力が喰くい込んでいるといっても、血のなかに先生の命が流れているといっても、その時の私には少しも誇張でないように思われた。私は父が私の本当の父であり、先生はまたいうまでもなく、あかの他人であるという明白な事実を、ことさらに眼の前に並べてみて、始めて大きな真理でも発見したかのごとくに驚いた。

(夏目漱石『こころ』)

 ここに現れる「私」の先生に対する感覚まで「ホモ疑惑」に閉じ込めようという人しか存在しないことが空しい。私はこれまでここを『坊っちゃん』の「おれ」の「うらなり君」に対する感覚、前世の因縁、あるいは『吾輩は猫である』の、

「見ると、もう誰か来て先へぶら下がっている。たった一足違いでねえ君、残念な事をしたよ。考えると何でもその時は死神に取り着かれたんだね。ゼームスなどに云わせると副意識下の幽冥界と僕が存在している現実界が一種の因果法によって互に感応したんだろう。実に不思議な事があるものじゃないか」迷亭はすまし返っている。

(夏目漱石『吾輩は猫である』)

 こうした「副意識」の問題として捉えていた。

 しかしもう少し無理な解釈をすると、実際肉のなかに先生の力が喰くい込んでいおり、血のなかに先生の命が流れているということがないとは言えない。つまり現に生きている先生が「私」の先祖でもおかしくはないのだ。無論これは無理な解釈だ。

 ただここだけが無理なわけではないのだ。

 

全く無用であった

「この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょう」
 私ははっと思った。今までざわざわと動いていた私の胸が一度に凝結したように感じた。私はまた逆に頁をはぐり返した。そうして一枚に一句ぐらいずつの割で倒さに読んで行った。私は咄嗟の間に、私の知らなければならない事を知ろうとして、ちらちらする文字を、眼で刺し通そうと試みた。その時私の知ろうとするのは、ただ先生の安否だけであった。先生の過去、かつて先生が私に話そうと約束した薄暗いその過去、そんなものは私に取って、全く無用であった。私は倒まに頁をはぐりながら、私に必要な知識を容易に与えてくれないこの長い手紙を自烈ったそうに畳んだ。

(夏目漱石『こころ』)

 ここには人が長文を読むという時の素直な表現がある。人はしばしば自分が欲しい情報だけを求めて文章を読む。書き手が読んでもらいところではなく、読み手が読みたいところを読む。それで読者だと威張る。解らないとじれったい。しかし安否も何も「とくに死んでいるでしょう」と書かれているので先生はもう死んだのだろう。

 しかし「私」は先生の安否を知ろうと焦る。

 もう一度書こう。

 安否も何も「とくに死んでいるでしょう」と書かれているので先生はもう死んだのだろう。

 しかし「私」は先生の安否を知ろうと焦る。

 つまり全然読めていない。そんな馬鹿なことがあるだろうかと思うが、実はここに明らかな無理があるのと同じ意味で、夏目漱石の受容のされ方そのものにかなり無理があるのではないだろうか。

 日本で一番売れた文庫本は夏目漱石の『こころ』だと言われている。五つも六つもの出版社から夏目漱石の主要な作品は文庫本として現在も出版されている。

 その上で、今更、漱石は『こころ』という作品に無理なのか矛盾なのか判断のつかないことを無理やり持ち込もうとしている、などと書かれること自体が常識的には無理なことではなかろうか。

 無論それは『こころ』だけの問題ではない。Kの自死は小刀細工に見せかけたお祝いであると書いても、それは言葉遊びだと逃げることは出来よう。しかし実際に三四郎の身長が伸び縮みすることはこれまで単に誤魔化されてきたに過ぎないのではなかったか。

 たとえば鴉の勘定が合わないことも含めて、夏目漱石が誰にも読まれてこなかったことには明らかな無理がある。

 どう考えてもそんなはずはない、とは先生の手紙を折りたたむことだけではない。夏目漱石は『こころ』の中にいくつもの無理を拵えた。

・「私」がKの生まれ変わりであること
・「私」が全裸で泳ぐこと
・先生の血が「私」に流れていること
・先生の手紙を四つ折りにすること
・「とくに死んでいるでしょう」と書かれているのに安否が解らないこと
・乃木静子が殉死すること

 そしてこんな『こころ』が誰にも理解されないまま大ベストセラーになったことが無理である。

 無理が通ったので道理は引っ込まざるを得ない。



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