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岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する103 夏目漱石『こころ』をどう読むか480 そういうところだ

あなたは幾歳ですか?


「私は淋しい人間です」と先生がいった。「だからあなたの来て下さる事を喜んでいます。だからなぜそうたびたび来るのかといって聞いたのです」
「そりゃまたなぜです」
 私がこう聞き返した時、先生は何とも答えなかった。ただ私の顔を見て「あなたは幾歳ですか」といった。
 この問答は私にとってすこぶる不得要領のものであったが、私はその時底そこまで押さずに帰ってしまった。

(夏目漱石『こころ』)

 この「あなたは幾歳ですか?」に岩波はこんな注解をつける。

 あなたは幾歳ですか? [新] 「私」は明治二十年前後の生まれで、当時は高等学校在学中の明治四十年、四十一年頃と推測されるから、数え年で二十歳を少し過ぎた年齢と考えられる。

(『定本漱石全集 第九巻』岩波書店 2017年)

 しかしこれまでの漱石作品を眺めてみると、『坊っちゃん』の「おれ」は物理学校を三年のストレートで卒業するが教師として赴任する際の履歴書には二十三年四か月と書かれるし、『三四郎』の三四郎も与次郎も大学入学時に何故か二十三歳だ。夏目漱石自身がなんやかやとあって帝国大学に入る時点で二十三歳であった。ここで真面目に年齢を計算することに意味があるだろうか。

 むしろ、

この問答は私にとってすこぶる不得要領のものであった


 ここに注釈が付くべきではなかろうか。大体そんな帝大生がいますか? 二歳児でも恥ずかしそうにvサインは出せる。三歳児なら「さんちゃい」と云える。では何故「この問答は私にとってすこぶる不得要領のものであった」のか。それは、

 一郎の年齢や、健三の出自に関して考えて見れば判ることだ。
 どういう了見か『三四郎』では二度生まれ年を聞かれた三四郎が年齢で答える。
 何故「私」は自分の年齢を即答できないのか。夏目漱石がそこを考えろと合図しているからだ。「私」はKの生まれ変わりのように仄めかされている。しかし先生と十五六歳差では本当の生まれ変わりとしては計算が合わない。そこで夏目漱石は『明暗』では「生きたままの生まれ変わり」というアイデアを持ち出してきた。
 しかし註釈者はあろうことか私の年齢を計算してしまっているので、「私」がKの生まれ変わりのように仄めかされている、という要素がまるで見えなくなってしまっている。

私は実に先生をこの雑沓の間に見付け出したのである。

(夏目漱石『こころ』)

 ここなんですが、「実に」ってなんですかね? 「見付け出した」って何ですかね? 未知のものは「見付け出した」とは言いませんよね。

君の顔には見覚えがありませんね

 私は最後に先生に向かって、どこかで先生を見たように思うけれども、どうしても思い出せないといった。若い私はその時暗に相手も私と同じような感じを持っていはしまいかと疑った。そうして腹の中で先生の返事を予期してかかった。ところが先生はしばらく沈吟したあとで、「どうも君の顔には見覚えがありませんね。人違いじゃないですか」といったので私は変に一種の失望を感じた。

(夏目漱石『こころ』)

 ここは漱石が明かに「私」がKの生まれ変わりのように仄めかされているところだ。このふりは先生の遺書でおとぼけではなく、先生は最後まで「私」の立ち位置が掴めていないことが分かる。一方「私」の方は、自分だけに託された先生の遺書を受けて、


事実の上に証拠立てられた


 私は最初から先生には近づきがたい不思議があるように思っていた。それでいて、どうしても近づかなければいられないという感じが、どこかに強く働いた。こういう感じを先生に対してもっていたものは、多くの人のうちであるいは私だけかも知れない。しかしその私だけにはこの直感が後になって事実の上に証拠立てられたのだから、私は若々しいといわれても、馬鹿げていると笑われても、それを見越した自分の直覚をとにかく頼もしくまた嬉しく思っている。

(夏目漱石『こころ』)

 私だけにはこの直感が後になって事実の上に証拠立てられた、と書いてしまう。このロジックからはやはり常識的にはあり得ないことではあるものの、小説の中の話としては「私」がKの生まれ変わりのように仄めかされているという設定が見えてくるのである。

 それを「私」の年齢だけを根拠に突っぱねる人がいるからこそ「この問答は私にとってすこぶる不得要領のものであった」わけなのではなかろうか。

[付記]

 この「年齢が合わない問題」は『こころ』でいきなりポンと出てきたわけではなくて、たとえば『坊っちゃん』における「清実母説」などにしても同じ形ではあるわけです。書かれている所からすると、老婢なのであれこれ計算して無理ではないかと思いつつ、まさに「実母のような感じ」そのものは確かにあるわけです。
 また『三四郎』では母親から野々宮を頼りにしろと言われる三四郎の本当の父親は野々宮なのかと一瞬考えさせられるロジックが出てきますね。しかしここもあれこれ計算してみると、三四郎と野々宮にはせいぜい七歳差しかなく、どうも「年齢が合わない問題」になってしまうわけです。じゃあ広田から言われる「母親からこの人を頼れと言われた人本当の父親説」は何だったのかとなりますが、兎に角漱石はそういうちょっとした矛盾、勘定が合わないことを書きたかったようです。
 それから『行人』と『道草』に関しては本文でも書きましたね。

 この辺りの何だか解らない理屈は、自身が遅い子として生まれて、直ぐ養子に出されて、実母を知らずに育ち、実母を見たらお婆さんだったというトラウマとして、『声』なんかに象徴的に現れているように思います。理屈と云いながら「象徴的」では何だか誤魔化しているみたいですが、そもそも何だか解らない理屈ではあるわけです。
 それで私は『道草』に関してもただ「矛盾しているじゃないか、おかしいぞ」と捉えるんじゃなくて、むしろその矛盾に気が付かない健三というところに焦点を当てて論じたわけです。その秘密はあるにはあるとして、そこを暴くことそのものに意味があるのではなくて、そうした気が付かなさで辛うじて成立している家族関係の微妙さと云うものを捉えたわけです。
 これは『行人』についても同じで、一郎の不安の一部には自分はよその子ではないかというものが「無意識」にはあるとして、一郎はそこを突き止められないわけです。実際一郎が三十歳で父親が五十一歳であったとして、そこで盲目の女のように指を折るのは読者の仕事で、舞台上の一郎がそんなことをしたら芝居が壊れてしまうわけです。
 つまり「私」も漱石の芝居の舞台に立っているわけですから「この問答は私にとってすこぶる不得要領のものであった」となる訳です。

 え、生きたままの生まれ変わりなんてそもそも非科学的?

 では死んでからの生まれ変わりなら科学的なんですかね?

 非科学的ってのは私の本を買わない人のことですよ。



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