『倫敦塔』について①
何度読み返してみても『倫敦塔』は不思議な話です。書いてあることは解るけれども、何が書いてあるのかは解らない、ロジックが利かない、そういう話に思えます。つまりこれまでの私自身の理屈でいえば「それでは読んだことにはならない」作品なのです。例えば、
……と、あたかも旅行記、エッセイかと見まがうように始まった物語は、急に常態を失った「余」という信頼できない話者と付き合わされる幻想小説になります。つまり基本的には全部の出来事が現実ではないのですが、実際全部の出来事が現実ではない、として読むことはなかなか難しいのです。人は仮構の中にもどこか現実世界の合理性を求めていて、仮構の前提となるあり得ない設定を受け入れてしまった後は、その残りの部分では現実世界と変わりない合理的な世界の成り立ちを希望してしまうものではないでしょうか。ないでしょうかと云いながら、これは私個人の感覚なのですが。ところがこの『倫敦塔』という小説は、あたかも阿片中毒者の白日夢のように、幻想を畳みかけるのです。しかも『夢十夜』のように考えさせることを放棄させるような形ではなく、理屈を完全には放棄していないのでさらにややこしいのです。この『倫敦塔』は並外れて厄介な作品だと思います。
この一作に関しては、ダミアン・フラナガンの着想もけして奇抜ではないと思われるほどです。
この「あやしき女」と小供の会話は常識的には会話になっていません。言葉は交わしていますが、意味としてはすれ違っているからです。「彼は鴉の気分をわが事のごとくに云い、三羽しか見えぬ鴉を五羽いると断言する」と「余」は冷静に指摘しているようでもありますが、その「余」もまた「この女とこの鴉の間に何か不思議の因縁でもありはせぬかと疑った」と少々真面でないことを考えています。まあ「常態を失っている」のならばそうなっても可笑しくはないのですが、読み手として混乱するのは、「常態を失っている」話者がなまじっか理屈を持ってこようとするからなのです。理屈を完全に放棄して、つまり自分が見聞きする不思議な出来事をそのまま語ってくれればそれは、ああ不思議だな、で片付けられるのですが、理屈を言い出すとややこしいことになります。「余」は、意味としてはすれ違っている会話にオカルト的な根拠を求めようとしています。これが「鴉は五羽いました」なら「今見えている三羽は今しがた二羽の鴉を食べてしまったところなので今は食欲がありません」という理屈にもなるのでしょうが、「あの鴉は五羽います」では見えない二羽の鴉が見えている「あやしき女」が鴉の感情をも見えているというただただオカルトチックな話になってしまいます。
この鴉については、
……と宿の主人がまるで合理的な種明かしをした如く書かれていますが、
①「あやしき女」が鴉の気分をわが事のごとくに云い
②「あやしき女」が三羽しか見えぬ鴉を五羽いると断言する
……と云う謎に関しては全く解決していないわけです。つまり言葉の上では「手もなく説明」されているようでありながら、何にも説明されていないのです。何も説明されていないのに「余」は納得してしまっています。むしろ、
③いつでも五羽いる筈の鴉が二羽不足していたのは何故
……と云う謎が加わります。そしてむしろ「今見えている三羽は今しがた二羽の鴉を食べてしまったところなので今は食欲がありません」という打ち捨てた筈の理屈が再び浮かび上がってきます。「一羽でも数が不足すると」という主人の言葉が気になります。「一羽でも数が不足すると」とはどういう状況なのでしょうか。不足する、とはまさに鴉の死を意味していないでしょうか。そしてさらに「いつでも五羽に限っている」としたら、
④「余」が鴉は三羽しかいないと思ったのは何故なのか
……と云う謎が加わります。無論全部の不整合を「余が常態を失っているから」と片付けて片付けられないことはない筈なのですが、どこかでこの『倫敦塔』は現実の合理性と接点を持ちたがっているのですね。だから困るのです。
どのみち「あやしき女」は怪しいのです。いえ、一番怪しいのは「余」です。
ここにあるのは「余」の幻覚と幻聴と妄想でしょう。何しろ十六世紀のことですから、到底現実ではありません。そう思ってみると、の一言で、意識は想像・幻想の世界に完全に入り込みます。この想像・幻想が一旦途切れたところにまた、「あやしき女」が現れるのです。これは二十世紀のことなので、現実のような感じがしてしまうわけです。現実の世界に「あやしき女」が現れたように錯覚してしまうのです。
なるほど不思議な女です。しかしこの話も宿の主人には全く不思議でない話にされてしまいます。
ここですね。不思議だね、変だね、という話にしません。そんなことは何の不思議もないのだよと理屈を言います。一応は理屈ですが、案内記を読んで出掛けたとして、「見ると珊瑚のような唇が電気でも懸けたかと思われるまでにぶるぶると顫えている。蝮が鼠に向ったときの舌の先のごとくだ」という女の様子はまさに今、題辞をその眼で見ているかのようではないでしょうか。ジョン・ダッドレーは大逆罪の罪で倫敦塔で処刑されました。「あやしき女」はあたかもジョン・ダッドレーの縁故者のようです。しかし十六世紀の血を生々しく我が手に見たのは「余」なのです。案内記は持たず一枚の地図だけを頼りに倫敦塔を訪ねた「余」はどういうわけか十六世紀の首斬り役の姿を見て、声を聞くわけですよね。これはどうも真面ではありません。本当に真面ではない人の特徴は明らかに真面ではないのに、自分ではそのことを一切気にしないのです。「余」も「あやしき女」のふるまいを不思議がりますが、自分の手が血で赤く染まったことを不思議がりもせず、また宿の主人にも話さないのです。
このやり口で、何が何だか分からなくなります。つまり漱石先生は完全にいっちゃっているようでありながら、三層の仮構を組み立て、その中で冷静に登場人物を動かしている訳です。一層目は宿の主人のレベル、二層目は怪しき女のレベル、三層目は十六世紀の首切り役のレベル。「余」は直接十六世紀の首切り役の会話を聞き、怪しき女の不思議なふるまいに戸惑い、宿の主人の話で現実に引き戻されます。しかし宿の主人の現実は、今にも底が抜けそうなあやふやな現実です。こうなると、読んでいる私は、四層目の確かな現実が欲しくなります。『夢十夜』は三層目の仮構です。『永日小品』は一層目の仮構です。これらが組み合わされると、こんなにも話が分からなくなるのかと感心するのが『倫敦塔』という小説です。
この小説には作者による解題ととれる説明書きも加えられています。
普通解題を読めば「ああ、そういうことか」と納得するものですが、この漱石の説明を読むと、なるほどと思いつつ、だからといってこうなる? とむしろ疑問が増えていくような気がします。「見る間に三万坪に余る過去の一大磁石は現世に浮游するこの小鉄屑を吸収しおわった」ってどんな映像になりますかね?
この場面、件の鴉の数のくだりの前に据えられています。「流れる血は生きているうちからすでに冷めたかったであろう」とは、断首の恐怖のために血も凍えていただろうと読むことはできます。その程度の抽象性に戸惑っている訳ではないのです。しかしそれなら「目がくらんで物の色さえ定かには眸中に写らぬ先に」ではなかろうと思うわけです。では、何故「流れる血は生きているうちからすでに冷めたかったであろう」?
それに「百年碧血の恨みが凝って化鳥の姿となって長くこの不吉な地を守るような心地がする」ってどんな心地ですかね?
解ります?
あまりにも解らないので、今回は何かずばっという答えのない、疑問だけの話に留めます。続きは、いずれ。
The axe was sharp, and heavy as lead,
As it touched the neck, off went the head!
Whir―whir―whir―whir!
Queen Anne laid her white throat upon the block,
Quietly waiting the fatal shock;
The axe it severed it right in twain,
And so quick―so true―that she felt no pain.
Whir―whir―whir―whir!
Salisbury's countess, she would not die
As a proud dame should―decorously.
Lifting my axe, I split her skull,
And the edge since then has been notched and dull.
Whir―whir―whir―whir!
Queen Catherine Howard gave me a fee, ―
A chain of gold―to die easily:
And her costly present she did not rue,
For I touched her head, and away it flew!
Whir―whir―whir―whir!
斧は鋭く、鉛のように重かった。
首に当たると、首が取れた!
ワーワー ワーワー ワーワー!
アン女王はその白い喉をブロックの上に置いた。
致命的な衝撃を静かに待った
斧はそれを真っ二つに切り裂いた。
彼女は痛みを感じなかった
ワーワー、ワーワー、ワーワー!
ソールズベリーの伯爵夫人は 死なないだろう
誇り高き貴婦人の尊厳ある死だ
私は斧を振り上げ 彼女の頭蓋骨を割った
それ以来、刃は刻まれ、鈍くなった。
ワーワー ワーワー ワーワー!
キャサリン・ハワード女王は私に報酬を与えた
金の鎖だ簡単に死ねると
その高価な贈り物を、彼女は後悔しなかった。
彼女の頭に触れたら、飛んでいってしまったからだ
ウィーウィーウィーウィーウィーウィー!
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