山師の玄関に異ならず あるいはある末法の風景
永井荷風の『断腸亭日記』読むと、米騒動も関東大震災も知らずにこの世を去った夏目漱石はむしろ幸福であったかも知れないと思えてならない。
大正十二年、十月、『断腸亭日記』によればこんなとんでもない災難があったらしい。
いやはや、これはとんだ災難である。色黒くでぶでぶとしたる醜婦が押しかけてきてはさぞかし迷惑であろう。女房の尻に敷かれる夫は、自分が納得していればそれでいいが、こんな夫婦が押しかけてきてどたばたやられてはたまらない。漱石ならどうしただろう。流石に猫の子ではないのだから「置いてやればいいだろう」とはならないだろう。
去勢や原爆を許容する沼正三の理屈はひどく個人的なものであり、誰もその理屈に巻き込まれる必要がないものだ、という当たり前の事実がこの指摘にはある。
またここには独特な時代感覚が記録されていることも確認しておこう。1912年、明治四十五年頃から堰を切ったように「新しき女」が論じられ始める。それは無論女だけの問題ではなく、世相の問題ではあった。1900年、既に「モボ、モガ」という言葉が使われている。
パンタライ社ばかりが過激なわけではない。今ではガングロギャルが気持ち悪くおかしいが、白粉を塗ってダンスしようという大正時代の女たちも負けず劣らず気持ち悪くおかしい。
ここにはあるベクトルがある。
地震は九月一日、余震は十五日まで続いた。色黒くでぶでぶとしたる醜婦が押しかけて来たのが大地震の後一週間ばかり過ぎたりし時。十月二日には赤坂麹町の焼け跡を巡視し、神楽坂の馴染みの酒亭に妓を招いて酌をさせる。翌三日、断腸亭は日比谷公園、数寄屋橋、銀座、烏森、愛宕下、江戸見坂と糞尿の臭気漂う東京を歩き回り、支那街のごとしといい、奢侈驕慢、貪欲飽くことを知らざりし有様を顧みれば天罰、百年の計をなさざる国家の末路はかくの如し、と断じる。つらつら明治以降大正現代の帝都を見れば、所謂山師の玄関に異ならずと皮肉る。ツイッターでもやっていたらコテンパンにやられたことだろう。
十月十一日、築地より電車にて帰る、とある。動いていた電車もあるようだ。
翌年の九月一日、都人戦戦兢兢、銀行は閉まり、八百屋魚屋も店を閉めた。断腸亭は鴎外の北條霞亭を読了す。
十月十六日、難波大助の死刑を新聞が一斉に報じる。
この無念とは「アナキストの大杉栄らが官憲に殺害された甘粕事件や、労働運動を弾圧するため社会主義者らが官憲によって拉致・殺害された亀戸事件など」(ウイキペディア「難波大助」より)であろうか。それにしても「大小となく歐洲文明皮相の模倣にあらざるはなし。」とは、いかにもロジカルである。大とは英国のロイヤルファミリーをまねた皇室であろうか。
この末法の世を谷崎潤一郎は『法成寺物語』で予告していたように思えてならない。
実際に明治政府が行ったことは、もっと露骨な破壊行為だった。
億兆の國民ばかりが罰を受け、ただで済むわけはない。いや、末法だから、仏には何の力もなくて、誰も仏罰を受けることもないのだけれど。
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