見出し画像

岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する152 夏目漱石『明暗』をどう読むか① めでたいことも悲しいことも入り混じっている

今まで何を読んできたのか


 医者は探りを入れた後で、手術台の上から津田を下した。
「やっぱり穴が腸まで続いているんでした。この前探った時は、途中に瘢痕の隆起があったので、ついそこが行きどまりだとばかり思って、ああ云ったんですが、今日疎通を好くするために、そいつをがりがり掻き落して見ると、まだ奥があるんです」
「そうしてそれが腸まで続いているんですか」
「そうです。五分ぐらいだと思っていたのが約一寸ほどあるんです」

(夏目漱石『明暗』)

 岩波はまず「明暗」というタイトルの意味に関する二説を拾い、この処置と説明の様子が日記に書かれているものだということのみを示す。

 津田という名前にも触れない。津田は後に津田由雄というサラリーマンだと解るが、この時点で津田は夏目漱石の洋画の先生でもあり、漱石作品の装丁者でもある津田青楓とどういうわけか同じ苗字である。これは例えば村上春樹が安西水丸の本名渡辺昇を小説の主人公にしてしまうようなやり方でなかなか際どい。名前などいくらでもあるので、普通小説家は余計な誤解なきよう近親者の名前を持ち出さない。漱石には『野分』でやはりモデルの実名を使用した前科もあるので、ここはどういう悪戯なのかと掘るべきではなかろうか。

 そして「五分ぐらいだと思っていたのが約一寸ほどある」がただの病状報告であるわけもなかろう。漱石作品の書き出しにはいつも工夫がある。ここれはこの『明暗』という小説が「そこが行きどまりだとばかり思ってもまだ奥がある」という二段落ちの構造であることの仄めかしであろう。


何処でそんな技を覚えたのか

 津田の顔には苦笑の裡に淡く盛り上げられた失望の色が見えた。医者は白いだぶだぶした上着の前に両手を組み合わせたまま、ちょっと首を傾けた。その様子が「御気の毒ですが事実だから仕方がありません。医者は自分の職業に対して虚言を吐く訳に行かないんですから」という意味に受取れた。
 津田は無言のまま帯を締め直して、椅子の背に投げ掛けられた袴を取り上げながらまた医者の方を向いた。
「腸まで続いているとすると、癒りっこないんですか」
「そんな事はありません」

(夏目漱石『明暗』)

 ここも岩波がスルーしているところ。しかしこの描写こそお手本のようなカメラ割り、スイッチングなのではなかろうか。このことは何度も書いて来たがむしろ現代の映画やドラマ、アニメに慣れてしまった現代人にこそ自然な表現に思えるが、こうしたカメラ割り、スイッチングの表現は漱石以前にはちょっと見つからない。昔のものは大抵描写ではなく説明になっているのだ。解釈の仕様によってはカメラ割り、スイッチングに見えなくないものもなくはないが、遠景からのスームイン、スイッチングを明確に意識して使ったのが芥川の『羅生門』、ドローン撮影のようなものは漱石の『草枕』に始まる。

そうでなければ?

「もし結核性のものだとすると、たとい今おっしゃったような根本的な手術をして、細い溝を全部腸の方へ切り開いてしまっても癒らないんでしょう」
「結核性なら駄目です。それからそれへと穴を掘って奥の方へ進んで行くんだから、口元だけ治療したって役にゃ立ちません」
 津田は思わず眉を寄せた。
「私のは結核性じゃないんですか」
「いえ、結核性じゃありません」

(夏目漱石『明暗』)

 岩波はここを表層的に読む。しかしここは漱石が結核性でなければ何なのかと考えさせようとしているところで、外傷性痔瘻が疑われるところだ。

 大体近代文学で、いきなり肛門の話から始まる作品が他にあるだろうか。そう考えてみればこれは単なる体験の記録の借用などというものではあり得ないということが解るであろう。事実のあるなしに関わらず、作家が何かを書くということは常に作為なのである。

病気というものはそんなものだけど

「どうしてあんな苦しい目に会ったんだろう」
 荒川堤へ花見に行った帰り途から何らの予告なしに突発した当時の疼痛について、彼は全くの盲目漢であった。その原因はあらゆる想像のほかにあった。不思議というよりもむしろ恐ろしかった。

(夏目漱石『明暗』)

 津田の病気に限らず病気というものはそんなものだ。去年二月と四月に立て続けに粉瘤の手術をした。まさに「不思議というよりもむしろ恐ろしかった」。部分麻酔なので肉をえぐられる激痛に十数分堪えなくてはならない。そうした体験を経て読むとここはまさに素直な感想があるように見えかねないが、ここはまだふりで、自由意志と自己決定、決定論の関係が問われ始めるきっかけとなる。
 二回目の手術があまりにも痛いので医師に「なんで立て続けにこんなことになるのか、食生活などで予防できないのか」と質問したが「割とよくある病気ですからね」と誤魔化された。外科手術で解決するので病理学的研究は進んでいないようだ。
 しかし本人にしてみれば「割とよくある病気ですからね」で済む話ではない。大事なのだ。ただ自分の意思とは無関係なところで自分の体が変化していく。この「不思議というよりもむしろ恐ろし」いものが肉体であり精神でもあると話は進んでいく。
 まさに満身創痍で書き続けていた漱石にしかとらえられない人間の恐ろしさがここにはある。

指が勝手に動いている

「この肉体はいつ何時どんな変へんに会わないとも限らない。それどころか、今現にどんな変がこの肉体のうちに起りつつあるかも知れない。そうして自分は全く知らずにいる。恐ろしい事だ」
 ここまで働らいて来た彼の頭はそこでとまる事ができなかった。どっと後から突き落すような勢で、彼を前の方に押しやった。突然彼は心の中で叫んだ。
「精神界も同じ事だ。精神界も全く同じ事だ。いつどう変るか分らない。そうしてその変るところをおれは見たのだ」

(夏目漱石『明暗』)

 漱石と芥川には最新の脳科学の成果である自由意志とか自己決定なとど呼んできたものが錯覚であり、無意識のうちに脳が選択した結果に意識が後付けでもっともらしい理由を無理やり付け足しているという仮説が理解できていたのではないかと思われるようなところがある。

 いや、贔屓の引き倒しなどではけしてなく。

 漱石のこの「どっと後から突き落すような勢で、彼を前の方に押しやった」というのもまさにそうで、自分で考えているのに自分に考えさせられているようなものである。

 これは私も同じでこの記事も指が勝手に動いているだけで、私という人間がやっていることは書いてはいけないところをデリートするだけだ。つまり誰がこんなことを考えているのかよく分からないで書いている。
 次に何を書くのかも決めていない。決めていないけれど指が文字を打つ。考え始めると指が止まる。不思議なものだ。

 あ、止まった。


[余談]

 美味しそう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?