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谷崎潤一郎の『月の囁き』を読む 何が「C、U」だよ。

 アニメでも映画でも、もし谷崎が現在の映像作品を見ることが出来たなら、やはりここは素直に映画劇としての『月の囁き』を稚拙だと認めるに違いない。カメラの切り替えの利かない芝居から、映画のシナリオ風に引きや寄りのカメラワークを取り込んだところで、読み物としては却ってまどろっこしく、話の筋が今一つ入って来ない。ただこう言った新しい技術に基づく新しい芸術の黎明期には、かならず同じようなことが起こり得るのだろうと同情せざるを得ない。
 少し違う話のようだが、例えば顕微鏡が普及し、黴菌が目視できるようになったがために、森鴎外はあんころ餅をお茶漬けにして食べなくてはならなくなった。脚気の原因を見誤ったのも、そうした顕微鏡という新しい技術の弊害であったかもしれない。
 谷崎が『月の囁き』で試みたのは立体的な芝居である。舞台に縛られない芝居である。これは映画という新しい技術に基づく芸術を取り入れようとする谷崎らしい思い付きであるが、これはついこれまで漢詩の表現力を讃えていた谷崎らしからぬ思い付きでもある。
 映画が好きで、シナリオの勉強をしていた村上春樹さんの作品の多くは、本人が「音楽的」という割には視覚的で解りやすい描写と、もう一つ音読した際に滑らかであるという表現上の特徴を持っている。浅田次郎さんも確か音読で表現の滑らかさを工夫していた筈だ。そうした作業によっていわゆる「読みやすい」「耳障りの良い」文体ができあがる。酒鬼薔薇君の『絶歌』は、本人が「映画を撮るように本を読んでいた」というとおり、解りやすい描写になっている。この「映画を撮るように本を読んでいた」という発言は、何割かの人には共通していて、小説を読む際に一切絵にならない人と、かなり絵にして読む人が分かれるようだ。村上春樹さんの場合、かなり絵にして「映画を撮るように本を書いている」という印象がある。

 しかし谷崎の『月の囁き』では「映画を撮るように本を書いている」筈なのに、途中から絵がうまく浮かんでこない。どうも立体的な描写がうまく行っていない。絵にこだわった分、筋も伝わってこない。ここで私はつい芥川の事を考える。

 田山花袋の平面描写が説明に留まり、芥川龍之介の『羅生門』などが優れて現代的な映像芸術的立体描写になっていることについては既に述べた。

 それから、何分かの後である。羅生門の楼の上へ出る、幅の広い梯子の中段に、一人の男が、猫のように身をちぢめて、息を殺しながら、上の容子を窺っていた。(芥川龍之介『羅生門』)

 これは引きの絵。

 楼の上からさす火の光が、かすかに、その男の右の頬をぬらしている。短 い鬚の中に、赤く膿を持った面皰のある頬である。(芥川龍之介『羅生門』)

 そしてすぐに顏、面皰に寄っている。格好をつけて「C、U」などと書かなくても、日本語はこうして引きの絵から寄りの絵を鮮やかに描写することが出来るのである。またこんなカメラワークもある。

 抛り出された狐は、なぞへの斜面を、転げるやうにして、駈け下りると、水の無い河床の石の間を、器用に、ぴよいぴよい、飛び越えて、今度は、向うの斜面へ、勢よく、すぢかひに駈け上つた。駈け上りながら、ふりかへつて見ると、自分を手捕りにした侍の一行は、まだ遠い傾斜の上に馬を並べて立つてゐる。それが皆、指を揃へた程に、小さく見えた。殊に入日を浴びた、月毛と蘆毛とが、霜を含んだ空気の中に、描いたよりもくつきりと、浮き上つてゐる。(芥川龍之介『芋粥』)

 この狐の目線という切り替えを思いついた芥川、それをさらっと書いてしまう芥川を読んでいて、どうして映画如きに怯える必要があったのかと不思議になる。

津田の顔には苦笑の裡に淡く盛り上げられた失望の色が見えた。医者は白いだぶだぶした上着の前に両手を組み合わせたまま、ちょっと首を傾けた。その様子が「御気の毒ですが事実だから仕方がありません。医者は自分の職業に対して虚言うそを吐つく訳に行かないんですから」という意味に受取れた。(夏目漱石『明暗』)

 話者は津田の顔を見て、それから医者を見ている。「意味に受け取れた」とは津田の医者に対する印象であろう。しかし、津田には津田の顔を見ることが出来ない。この一瞬の間にカメラは確実にスイッチして、向き合う二人を撮っている。これが映画になれば何の説明を加えなくてもそういう映像になる。

 この『月の囁き』には、これまで書かれてきた近代文学の成果を無視するようなところがなくはないのではなかろうか。大天才、大谷崎の作とは言え、何でもかんでも褒めちぎるわけにはいかない。








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