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芥川龍之介から見た田山花袋、谷崎潤一郎 平面描写と比類ない語の織物師

 他人の作品を批評する中で、おのずと自身の文学論が零れるということがある。夏目漱石のように『文学論』や『文芸における哲学的基礎』によって方法論や考え方が示されていないことから、書かれている作品そのもの、あるいはこういう雑記のようなものを拾い集めていかなければ芥川龍之介の文学論は見えてこない。

 今になつて公平に考へれば、自然主義運動があれ丈だけ大きな波動を文壇に与へたのも、全く一つは田山氏の人格の力が然らしめたのに相違ない。その限りに於て田山氏は、氏の「妻」や「田舎教師」が如何いかに退屈であるにしても、乃至又氏の平面描写論が如何に幼稚であるにしても、確に我々後輩の敬意――とまで行かなければ、少くとも興味位は惹くに足る人物だつた。が、遺憾ながら当時の我々は、まだこの情熱に富んだ氏の人格を、評価するだけの雅量に乏しかつた。だから我々は氏の小説を一貫して、月光と性慾とを除いては、何ものも発見する事は出来なかつた。と同時に氏の感想や評論も、その怪しげな à la Huysmans の入信生活を聞かされる度に、先まづ Durtal と田山花袋氏との滑稽な対照を思ひ出させて、徒らに我々の冷笑を買ふばかりだつた。では我々は氏を目して、全然ハムバツグとしてゐたかと云ふと必しも亦さうぢやない。成程小説家としての氏や思想家としての氏は、更に本質的なものだとは思はなかつたが、それらに先立つて我々は、紀行文家としての田山氏を認めてゐた。Sentimental landscape-painter――これが当時の自分が、田山氏へ冠らせてゐた渾名だつた。実際氏は、小説や評論を書く合ひ間に、根気よく紀行文を書いてゐた。いや少し誇張して云へば、小説の多くも紀行文で、その中に Venus Libentina の信者たる男女を点出したものに過ぎなかつた。さうしてその紀行文を書いてゐる時の氏は、自由で、快活で、正直で、如何にも青い艸を得た驢馬のやうに、純真無垢な所があつた。従つてそれだけの領域では、田山氏はユニイクだと云はうが何だらうが差支へない。が、氏を自然主義の小説家たり、且かつ思想家たる文壇の泰斗と考へる事は、今よりも更に出来憎かつた。遠慮のない所を云ふと、自然主義運動に於ける氏の功績の如きも、「何しろ時代が時代だつたからね」なぞと軽蔑してゐたものである。(芥川龍之介『あの頃の自分の事』)

 芥川にとって田山花袋の作品や人物はこう見えていた訳である。今は人物には触れまい。この単なる悪口のようなものから、冷静に文学論を引き出してみれば、「退屈」と「幼稚」が否定されていると見るべきであろうか。思い出してみれば確かに芥川は『羅生門』において下人の顔面にカメラを固定しなかった。「それから、何分かの後である。羅生門の楼の上へ出る、幅の広い梯子の中段に、一人の男が、猫のように身をちぢめて、息を殺しながら、上の容子を窺っていた」と引きの画で下人を捉えるばかりか、敢えて下人を「一人の男」と呼んでみた。最後は羅生門にカメラを残し、下人は立ち去る。

 四里の道は長かった。その間に青縞の市のたつ羽生の町があった。田圃にはげんげが咲き、豪家の垣からは八重桜が散りこぼれた。赤い蹴出を出した田舎の姐さんがおりおり通った。(田山花袋『田舎教師』)

田山花袋のこの文章は「説明」であり観念である。一方芥川は、

 翌朝、内供がいつものように早く眼をさまして見ると、寺内の銀杏や橡が一晩の中に葉を落したので、庭は黄金を敷いたように明るい。塔の屋根には霜が下りているせいであろう。まだうすい朝日に、九輪がまばゆく光っている。禅智内供は、蔀を上げた縁に立って、深く息をすいこんだ。(芥川龍之介『鼻』)

 これは描写である。観念ではなく主体があり、今見えているように書かれている。内供の目と、内供を見る目があり、空間を立体に捉えている。

 性慾と悲哀と絶望とが忽ち時雄の胸を襲った。時雄はその蒲団を敷き、夜着をかけ、冷めたい汚れた天鵞絨の襟に顔を埋めて泣いた。(田山花袋『布団』)

 ここにはやはり嘘があり、時雄は「泣く」以外のことをしたのではないかという指摘がある。それもそうだが絶望した時、「泣く」ものだろうか。知らず知らず涙が出ることはあっても、呆然としているのではなかろうか。

 誰か自ら省れば脚に疵なきものあらんや。僕の如きは両脚の疵、殆ど両脚を中断せんとす。されど幸ひにこの大震を天譴なりと思ふ能はず。況や天譴の不公平なるにも呪詛の声を挙ぐる能はず。唯姉弟の家を焼かれ、数人の知友を死せしめしが故に、已み難き遺憾を感ずるのみ。我等は皆歎くべし、歎きたりと雖も絶望すべからず。絶望は死と暗黒とへの門なり。
 同胞よ。面皮を厚くせよ。「カンニング」を見つけられし中学生の如く、天譴なりなどと信ずること勿れ。僕のこの言を倣す所以は、渋沢子爵の一言より、滔滔と何なんでもしやべり得る僕の才力を示さんが為なり。されどかならずしもその為のみにはあらず。同胞よ。冷淡なる自然の前に、アダム以来の人間を樹立せよ。否定的精神の奴隷となること勿れ。(芥川龍之介『大正十二年九月一日の大震に際して』)

 ここにはまだ「山中人」の太さを演じる芥川がいる。

(最近広津和郎氏が谷崎氏を評して、余り健康なのを憾みとすると云つたのは、この活力に満ちた病的傾向を指摘したものだらうと思ふ。が、如何に活力に溢れてゐても、脂肪過多症の患者が存在し得る限り、やはり氏のそれは病的傾向に相違ない。)さうして此の耽美主義に慊らなかつた我々も、流石にその非凡な力を認めない訳に行かなかつたのは、この滔々たる氏の雄弁である。氏はありとあらゆる日本語や漢語を浚さらひ出して、ありとあらゆる感覚的な美を(或は醜を)、「刺青」以後の氏の作品に螺鈿の如く鏤めて行つた。しかもその氏の Les Emaux et Cam é es は、朗々たるリズムの糸で始から終まで、見事にずつと貫かれてゐた。自分は今日でも猶、氏の作品を読む機会があると、一字一句の意味よりも、寧ろその流れて尽きない文章のリズムから、半ば生理的な快感を感じる事が度々ある。ここに至るとその頃も、氏はやはり今の如く、比類ない語の織物師だつた。たとひ氏は暗澹たる文壇の空に、「恐怖の星」はともさなかつたにしても、氏の培つた斑猫色の花の下には、時ならない日本の魔女のサバトが開かれたのである。――(芥川龍之介『あの頃の自分の事』)

 これはまたべた褒めのようではあるが、ここも文学論としてみれば「語彙」「感覚的な美」「リズム」「魔女」を拾うべきか。例えば芥川は進むという意味の「足ぶみ」を使うがこの用例は他では見つからない。「よき」「さすが」については既に述べた。残りはまとめて『好色』に寄せて眺めても良かろうか。『好色』にも確かに日本の魔女のサバトが描かれている。





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