岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する183 夏目漱石『明暗』をどう読むか32 そうでないならなんなのか
一種の意味から余儀なくされる
言葉が解らないという時、その言葉の意味を知らない時もあれば、言葉そのものは分かるが言い回しにおいて意味が解らなくなるという時もある。この「一種の意味から余儀なくされる」もそういう意味では解らない言葉なのではなかろうか。
ここは津田の考えである。ここを、
・お延は「私などよりも嫂さんを大事にしています」というお秀の言葉を聞いているので、少し改まった言葉づかいをした方がお秀の反感を買わなくても済むと考えたのだろう、と津田は考えた。
……と解釈してしまうと、津田はお延が津田と妹の会話を盗み聞きしていたことを知っているという前提になる。
露骨に淡白な態度をとっていて取り繕う気配がないことから、「どこから」という点は曖昧乍ら、ある程度話を聴かれていること、聞かれては気まずい話をしていたこと自体はお秀も感づいていただろう。「一種の意味から余儀なくされる」という言い回しの曖昧さが会話の無さで補われている。これはまさにマルチモーダルな情報伝達手段が巧妙に組み合わされているところだ。
眼前の用を弁ずる中味に乏しい
これも極端に抽象的な言いまわしだ。これまでの日本語にはない言い回しで、「書留」の意味を覚えていないと解らない。よくこんな言い方が思いついたなと感心するところ。これは平たく言えば書留郵便ではないので「今はお金が必要なのにお金が入っていない」という意味だろう。
自分の手に余る或物が潜んでいる
夏目漱石が世間大評判となるきっかけは『吾輩は猫である』で間違いないのだが、よくよく調べてみると熊本時代から知る人ぞ知る存在であり、通人の間では『倫敦塔』あたりから新しい何かが現れたという評判がようだようだ。
このように岩野にとって漱石はまず『倫敦塔』の漱石であったのだろう。岩野泡鳴は時々おかしなことを書くが、まさかこれを『吾輩は猫である』を読んで書いたわけではない。
漱石作品はその後幻の世界から比較的平明な現実の世界に近付く。近づきながらもどこかで「わけの分からないもの」をどこかに抱えている。『倫敦塔』そのものは全体として訳が分からない。
解らないように書いている。これを解ったという人がいたら小一時間問い詰めてみたい。
次第に漱石作品は分かりやすくなる。しかし全部解るわけではない。野々宮の捜しものは解らない。怪しい色をした雲も解らない。小林という人物も解らない。しかし一番解らないのは、津田のこの「自分の手に余る或物」ではなかろうか。
津田由雄を無責任、記憶障害、ズボラ、馬鹿、いい加減、主体性がない、……と幾ら悪口で飾ってみてもどうもそれだけでは例の謎、
・このおれはまたどうしてあの女と結婚したのだろう
・しかしおれはいまだかつてあの女を貰おうとは思っていなかったのに
この謎を解く訳にはいかない。指輪を買った理由も結婚も全部偶然で片付く訳もない。自己決定と自由意志でないものが働いているところまでは解る。しかしそこから先に分かりやすい人格なりというものが見つけられない。津田は自分自身を疑っていながら、普通の人間のように振舞っている。三島由紀夫の『仮面の告白』のように理屈は捏ねない。捏ねたくなるところで捏ねない。つまり説明がない。
お延が捕まえきれないものを実は漱石は読者にも追わせているのだ。ふらふらする津田由雄という主体の「手に余る或物」がそれだ。これを完全に見つけたよという人がいたら、やはり一言二言問い詰めたい。
どうしたら、
・このおれはまたどうしてあの女と結婚したのだろう
・しかしおれはいまだかつてあの女を貰おうとは思っていなかったのに
こんなことが言えるのだろうかと。この問いはずっと続いている。そして途中で途切れてしまう。この問いに対する答えのない続編は無意味である。急いで書き直した方がいい。
お延お前お秀に詫ったらどうだ
これまでこの名台詞に関しては、まず最後まで失われることのなかった抜群のユーモアとして見てきた。そしてユーモアではありながら、客観的なロジックであり、大正解であることを見てきた。つまり指輪や小姑としての立場、京都への告げ口などの設定がここでバチッと生かされて、この名台詞が成立したことが解るとしてきた。
それはこれまでの話。
今回は飽くまでも責任を取らない男、絶対に反省もしないし、自分のない津田由雄の姿を見てみたい。
確かに「お延お前お秀に詫ったらどうだ」という津田の台詞はお秀の図星を突いている。お秀は指輪が憎い。お延が憎いのだ。津田を誠実ではない人間に変えてしまったお延が憎い。だからお秀はお延に本当は謝って貰いたい。だから津田のパスは意外ではあれ、ある意味不正解ではない。
不正解ではないのでついつい笑って読み飛ばしてしまうが、何も事情を知らないお延にしてみれば、あまりにも突然のスルーパスで、突然ボールが目の前に来たセンターフォワードのように、ボールを蹴り損ねない。
この当事者意識の無さはやはり異常なのだ。ユーモラスさはこの異常さから来ている。この異常さの核のようなものを摑まえなければ『明暗』を読んだとは言えないだろう。
義務かい、親切かい
主体のない男・津田由雄というところに注目した時、この「ちょっとお待ち。義務かい、親切かい、お前の云おうとする言葉の意味は」とか「そうかい。そんなら仕方がない。それで」と言った津田の言葉は如何にも他人事で、とりあえず自分を去っている感じはある。天に則しているとは思わない。よくそんなことが言っていられるなというところだ。まさに「それでじゃありません」と言いたくなる訳だ。
しかしよくよく読むとお秀が先に「義務」と言ってしまっていることを、「義務かい、親切かい」と津田が確認することで、お秀の罪悪感が見えてくる。お秀は本人が否定しているままのことをやったのだ。そういうつもりがなくてやったのではなく、そういうつもりがあってやったことの尻ぬぐいをしようとしていることになる。意地が悪い小姑のようで確かに二人に対する義務は果たしている。お秀には主体と云うものがある。
津田由雄には他人の責任は見えている。自分の責任だけは見えない。こうして津田はどんどん謎の人物になっていく。これは少し言い過ぎかもしれないがどこかローベルト・ムージル(この表記は定まっていない。古井由吉氏はムシルと濁らないのではないかと書いていた。)の『特性のない男』を思わせるふわふわ感がなくもない。手術入院、温泉湯治と短くない休暇期間を過ごしている津田は現代のサラリーマンと比較すると社会性を欠いているように見えなくもない。
そういう意味では短い期間ながら教師という職業と格闘した『坊っちゃん』の「おれ」や『坑夫』の「自分」、そして『彼岸過迄』の田川敬太郎や『道草』の健三などをわずかな例外として、夏目漱石は「職業人」というものを殆ど描いてこなかった。宗助や二郎は職業はあるものの、そこには何の格闘もない。
津田にはそうした職業人らしさがないだけではなく「できなければ死ぬまでの事さ」という突き詰めたいい加減さがある。この意味を捉えることが『明暗』を読むためにはどうしても必要だ。
今云ったじゃありませんか
いや、言っていない。
言っていないけれど、お秀は言ったつもりでいたのだ。「元々わずかな金額ですから、それについてとやかく云う気はちっともありませんけれども」と言った。そして「あたしの方の心遣いは、まるで兄さんに通じていないんだから、それがただ残念だと云いたいんです」と言った。心遣いが通じていないという言い分が津田には恩着せがましく聞こえたのだ。
言っていないことを言ったような気になる、これは失語症の一種である。理解障害、錯誤、言語性短期記憶障害が疑われる。……というわけではなく感情が乱れて興奮するあまり、失語症でなくてもそういう症状が現れることを漱石は指摘しているのだろう。
冷静に彼らの身分と境遇を眺める事のできる地位に立つ誰
この「冷静に彼らの身分と境遇を眺める事のできる地位に立つ誰」とは読者のことであろう。つまり『明暗』には作者どころか読者まで参加させられていることになる。
つまり読者の皆さんから見ればこの三人は小さなことに拘ってませんかと呼びかけられているということになる。箱庭が作られて実験が行われているのだ。読者はそれを観察させられている。これから起こることをよく見ていなさいよ、という合図されているところだ。
いや、これが津田なのか?
自由に彼らを操った
流石にそろそろそれなりの理屈を持ち出さないと気持ちが悪いので、漱石はまず小さな実験室を作り出して、人間が自由意志とか自己決定と呼んでいるものがいかに曖昧なものなのか、或いは人格を持たない「場」というものに因っていかに自由が奪われるものなのかということを漱石は示そうとしている。
これまでも見てきたように漱石の描くコミュニケーションはマルチモーダルであり、マルチモーダルインタラクションというものがしっかり捉えられてきた。同時に漱石は多数の自律的主体、つまりエージェントのミクロ的な相互作用から構成されるマルチエージェントインタラクションシナリオを書いてきた。私の本を読んだ人は確認済みかと思うが、これからそれぞれ自律的な筈のお延も秀子も場の相互作用とマルチモーダルな情報伝達によって実質的には負荷なき自己ではあり得なくなる。主体と云うものが曖昧になっていく。
その話を早く書きたいが、少し長くなったので今日はここまで。
[余談]
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