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『倫敦塔』について②

 昨日は『倫敦塔』という小説が解らないという話を書きました。


 解らないふりをしているのではなく、本当に解らないという説明をしたつもりです。解らなくさせているのは勿論漱石の意図するところ……なのかどうかも判然としません。このくらいの話ならついてこられるだろうと思って書いているのか、制御できないところで解らなさが発生してしまったのか判断できないのです。
 その解らなさの理由は、

 宿の主人のレベル、怪しき女のレベル、十六世紀の首切り役のレベルの三層の仮構を組み立てているが、十六世紀の首切り役のレベルの幻想が唐突で、二十世紀の現実レベルであるべき宿の主人の現実が今にも底が抜けそうなあやふやなものであるため。

 であろうと思われます。宿の主人と「余」との間で「なーんだそうか」と片付けられる「怪しき女」の話は、やはり不思議なままです。すると「怪しき女」の怪しさの方にむしろしかるべき因縁があって、二十世紀の現実レベルであるべき宿の主人がその事実を胡麻化そうとしているようにも読めるのです。

 まず十六世紀の首切り役のレベルの幻想の唐突さについてですが、何しろ話が十六世紀ですから、云ってみれば織田信長がいきなり現れるような話です。現実の裂け目から不意に十六世紀が出て來る……そういう幻想は他の夏目漱石作品には見られないのではないかと思います。『夢十夜』ですら百年しか待っていません。

 また宿の主人と「余」の間で非合理的な合意がなされるという仕掛けについては、やはり『夢十夜』に見られるものですが、『夢十夜』では、

 女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。真白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色は無論赤い。とうてい死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますと判然云った。自分も確かにこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗き込むようにして聞いて見た。死にますとも、と云いながら、女はぱっちりと眼を開けた。(夏目漱石『夢十夜』)

 ……このように「自分も確かにこれは死ぬなと思った」と非合理的な合意がなされながらあくまで理屈なしに事が運ばれるのに対して『倫敦塔』では「そりゃ当り前でさあ、皆んなあすこへ行く時にゃ案内記を読んで出掛けるんでさあ、そのくらいの事を知ってたって何も驚くにゃあたらないでしょう」とあくまであやふやな理屈が持ち出され「余」が何故か納得してしまうという違いがあります。このあやふやな理屈により非合理的な合意がなされることによってその合意形成に参与した人々への信頼性を失わせるという技法は……やはり他の夏目漱石作品には見られないのではないかと思います。

 二十前後の支那人は新たに厚い帳簿をひろげ、何か口の中に読みはじめた。が、その帳簿をとざしたと思うと、前よりも一層驚いたように年とった支那人へ話しかけた。
「駄目です。忍野半三郎君は三日前に死んでいます。」
「三日前に死んでいる?」
「しかも脚は腐っています。両脚とも腿から腐っています。」(芥川龍之介『馬の脚』)

 このようにあからさまに非合理的な合意形成が不思議な世界を拵えるという話はいくらでもあります。しかし漱石作品は、そういう不思議な世界を拵えるということをしてこなかったように思います。例えば『趣味の遺伝』では「余」がタイムトリップをして日露戦争に臨場します。ただ、「余」はその体験を作中人物とは共有せず、読者にのみ開示します。ですから非合理的な合意形成は起こりません。『三四郎』では、

 与次郎の言うところによると、よし子にも結婚の話がある。それから美禰子にもある。それだけならばいいが、よし子の行く所と、美禰子の行く所が、同じ人らしい。だから不思議なのだそうだ。(夏目漱石『三四郎』)

 という非合理的な話が出てきますが、結局はそれは与次郎の誤解で、よし子の縁談の相手に美禰子が嫁いだという、それはそれで不思議ではありますが、非合理的でない話に落ち着きます。
 あからさまに信頼できない語り手というものを持ち出すのもこの『倫敦塔』だけではないでしょうか。『坊っちゃん』の「おれ」は無鉄砲で勘違いしやすいようですが、あくまでもこっそりと疑わせていますね。『道草』の健三は語り手ではありませんが、兎に角「気が付かない」という性質を持っています。しかしそういうものと信頼できない語り手は全く別の技巧です。

 ですから私には何故漱石が『倫敦塔』のような小説を書いたのか、あるいはまたどのような意図で信頼できない語り手を持ち出したのかが曖昧なのです。

 この点について「解らない」という前提で敢えて、解釈を加えてみるとこうなります。実はそもそも漱石は非合理的で信用できない語り手なのです。その漱石らしさがそのまま出てしまったのが『倫敦塔』で、後の作品は次第に制御されていったのではなかったかと。

 漱石が非合理的で信用できない語り手である証拠の一つに、『水底の感』が挙げられます。寺田寅彦宛ての葉書に書かれたこの詩は、藤村操の彼女の気持ちになって書かれたものではないかとされていますが、その設定がそもそも無茶苦茶なのではないでしょうか。「予習をしてこない生徒を叱ったら華厳の滝に飛び込んで自殺したもので、そのガールフレンドの気持ちになって詩を書いてみた」みたいな話ですよね。そしてその中身が、

水の底、水の底。住まば水の底。深き契り、深く沈めて、永く住まん、君と我。
黒髮の、長き亂れ。藻屑もつれて、ゆるく漾ふ。夢ならぬ夢の命か。暗からぬ暗きあたり。
うれし水底。清き吾等に、譏り遠く憂透らず。有耶無耶の心ゆらぎて、愛の影ほの見ゆ。

 これ、勝手に心中させられちゃってませんか。この葉書を貰った寺田寅彦のしばらく何も考えられずただぼーっとする顔が思い浮かぶようです。非合理的で信用できない語り手ですよね、これ。
 それから非合理的で信用できない語り手ではないかという疑いの根拠とまでは云いませんが、その可能性の話として

 こんな見立てや、

 こんな状況証拠、そして

 このように良い意味で、スケール感・思考の跳躍力がけた違いである点なども、その途轍もなさ故、語り手を非合理的で信用できないように見せる要素なのではないでしょうか。非合理的とは言えないまでも私には漱石の理屈をそのまま飲み込むことが出来ません。スケール感・思考の跳躍力があまりにも違うからです。

 余が想像の糸をここまでたぐって来た時、室内の冷気が一度に背の毛穴から身の内に吹き込むような感じがして覚えずぞっとした。そう思って見ると何だか壁が湿っぽい。指先で撫でて見るとぬらりと露にすべる。指先を見ると真赤だ。壁の隅からぽたりぽたりと露の珠が垂れる。床の上を見るとその滴りの痕が鮮やかな紅の紋を不規則に連つらねる。十六世紀の血がにじみ出したと思う。壁の奥の方から唸り声さえ聞える。(夏目漱石『倫敦塔』)

 頭で考えて空想を書くことはできるものの、私には幻覚幻聴の能力がありません。ですから私の現実には十六世紀の血は滲み出てきません。しかし漱石の場合、この位深く、幻の中に潜ることが出来たのではないか、漱石の現実は時に裂け目を見せてはいなかったでしょうか。

 或日彼は誰も宅にいない時を見計らって、不細工な布袋竹の先へ一枚糸を着けて、餌と共に池の中に投げ込んだら、すぐ糸を引く気味の悪いものに脅かされた。彼を水の底に引っ張り込まなければやまないその強い力が二の腕まで伝った時、彼は恐ろしくなって、すぐ竿を放り出した。そうして翌日静かに水面に浮いている一尺余りの緋鯉を見出した。彼は独り怖がった。……(夏目漱石『道草』)

 わざわざここを引いたのは、自分ならば、緋鯉の姿を確認すれば怖がらないのにな、ということを云いたいからではありません。緋鯉が何故死んだのかは分からないけれど、自分が殺したのではなく、何か別のものによって殺されたような感じがするから怖いのでしょう。その理屈が頭ではわかっても、やはり私はそんなものが怖くないのです。漱石を非合理的で信用できない語り手と見立てるのはけして非難ではなく、凡庸なる語り手としてのため息のようなものです。『倫敦塔』を本当に「解った」と言うためには、私には根本的に欠けているものがあるのです。残念ながら。



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