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江藤淳の漱石論について⑨ 小宇宙と宇宙の大真理

 江藤淳は夏目漱石の聖化に我慢がならなかったとして「夏目漱石論」を書いた。それは夏目漱石を明治の一知識人という符号に置換し、なおナショナリストとして読み誤ることに徹したものだった。江藤淳は生涯その過ちに気が付くことなく、小刀細工でこの世を去った。極めてシンプルな話にすれば、夏目漱石の聖化には我慢がならないのに、何故西軍に担がれた幼帝の聖化は見赦したのかという程度の話になりかねない。

 しかし問題はそう単純なものではない。何故か近代文学1.0の世界では江藤淳は大喝采して受け入れられ、世間大評判となった。英雄視され、聖化されている。朝飯はパンだとエッセイ「私の朝食」(『夜の紅茶』所収)に書いては売れ、柄谷行人にまで崇拝されている。江藤淳の朝食がパンであるかどうか、そのことは私にはどうでもいい。しかし江藤淳は犬に餌でも投げ与えるように、朝飯のメニューをエッセイに書いたのである。ここには近代文学1.0の大きなねじれが見えないだろうか。

 すでに私は近代文学1.0は顔出しパネルと文豪飯だと書いた。江藤淳は「研究所の食堂」(『人と心と言葉』所収)において「まさかカップ・ラーメンというわけにもいかないから」とカップ・ラーメンを食べることをあり得ないこととして拒否している。「日刊アルバイトニュース」にエッセイを連載していた村上春樹がインスタントラーメンを食べることを拒否したのと同じ姿勢である。村上春樹は断固として中華料理を拒否し、麺類ではスパゲッティとうどんにこだわる。その作中に白飯が出て来ることはまれで、『ノルウェイの森』でカレーライスが出て来る程度だ。ホテルのバーで、(きゅうりの入った本物の)サンドウィッチを食べ、ビールを飲むことにこだわった。夏目漱石の朝食もパンである。昭和天皇の朝食も戦後は洋食で、オートミールかコーンフレーク、トースト、あとは温めた野菜とおかずが1品だったようだ。しかしそんなことは本来どうでもいいことではなかろうか。カップ・ラーメンを食べないことが人格者たる証明でもなかろう。


「宇宙は謎である。謎を解くは人々の勝手である。勝手に解いて、勝手に落ちつくものは幸福である。疑えば親さえ謎である。兄弟さえ謎である。妻も子も、かく観ずる自分さえも謎である。この世に生まれるのは解けぬ謎を、押しつけられて、白頭にせんかいし、中夜に煩悶するために生まれるのである。親の謎を解くためには、自分が親と同体にならねばならぬ。妻の謎を解くためには妻と同心にならねばならぬ。宇宙の謎を解くためには宇宙と同心同体にならねばならぬ。これが出来ねば、親も妻も宇宙も疑である。解けぬ謎である、苦痛である。親兄弟と云う解けぬ謎のある矢先に、妻と云う新しき謎を好んで貰うのは、自分の財産の所置に窮している上に、他人の金銭を預かると一般である。妻と云う新らしき謎を貰うのみか、新らしき謎に、また新らしき謎を生ませて苦しむのは、預かった金銭に利子が積んで、他人の所得をみずからと持ち扱うようなものであろう。……すべての疑は身を捨てて始めて解決が出来る。ただどう身を捨てるかが問題である。死? 死とはあまりに無能である」(夏目漱石『虞美人草』)

 それでも近代文学2.0の視点から見れば、夏目漱石の問うたところは、謎としての宇宙である。ウイットゲンシュタインのように同心できぬところにある謎を妻と宇宙とに同列に当て嵌めている。これはひっくり返せば比類なき《私》という永井均的問題でもある。私はこれを聖化して、とびぬけて時代を超越した発想だなどと言うつもりはない。

 日ごと夜ごとを入り乱れて、尽十方に飛び交かわす小世界の、普く天涯を行き尽して、しかも尽くる期なしと思わるるなかに、絹糸の細きを厭わず植えつけし蚕の卵の並べるごとくに、四人の小宇宙は、心なき汽車のうちに行く夜半を背中合せの知らぬ顔に並べられた。星の世は掃き落されて、大空の皮を奇麗に剥ぎ取った白日の、隠すなかれと立ち上のぼる窓の中に、四人の小宇宙は偶を作って、ここぞと互に擦れ違った。擦れ違って通り越した二個の小宇宙は今白い卓布を挟んでハムエクスを平げつつある。(夏目漱石『虞美人草』)

 この「小宇宙」の着想は何も『聖闘士星矢』を待つまでもなく、東洋では禅の世界で広く知られたものでもあり、人中にミクロコスモスがあるという発想もヨーガなどでは当たり前の話である。当たり前の話ではあるが、このように小宇宙がハムエクスを平らげつつあることは真面ではない。ふつうは口か人がハムエクスを平らげるのである。この表現は東海林さだおが「物を食うこと」を本当の意味で文学に昇華させるまで、どこか「上滑りした」ものではなかっただろうか。ショージ君ならここでミクロコスモスとハムエクスの格闘を膨らませる。「ないことないこと」を妄想し、食す人と調理人の思惑を捏造する。漱石は『虞美人草』においてまだその域に達していない。しかしこの「小宇宙」は買い被りでもなんでもなくショージ君の妄想を超えた大真面目なものでもあった。

 花の香さえ重きに過ぐる深き巷に、呼び交わしたる男と女の姿が、死の底に滅り込む春の影の上に、明らかに躍りあがる。宇宙は二人の宇宙である。脈々三千条の血管を越す、若き血潮の、寄せ来きたる心臓の扉は、恋と開き恋と閉じて、動かざる男女を、躍然と大空裏に描き出している。(夏目漱石『虞美人草』)

天地四方上下往古来今の存在が躍りあがる。

しかし主人の考えでは一年持ち、二年持ち、五年持ち十年持った以上は生涯しょうがい持たねばならぬと思っているらしい。随分呑気な事である。さてその因縁のある毛布の上へ前申す通り腹這になって何をしているかと思うと両手で出張った顋を支えて、右手の指の股に巻煙草を挟んでいる。ただそれだけである。もっとも彼がフケだらけの頭の裏には宇宙の大真理が火の車のごとく廻転しつつあるかも知れないが、外部から拝見したところでは、そんな事とは夢にも思えない。(夏目漱石『吾輩は猫である』)

 確かに『思い出すことなど』では宇宙の大真理が火の車のごとく廻転していた。

そもそも恋は宇宙的の活力である。上は在天の神ジュピターより下は土中に鳴く蚯蚓、おけらに至るまでこの道にかけて浮身を窶すのが万物の習いであるから、吾輩どもが朧うれしと、物騒な風流気を出すのも無理のない話しである。(夏目漱石『吾輩は猫である』)

 なるほど色恋の話は俗であるとは偏見であろう。漱石は繰り返し宇宙的活力であるところの恋を描いている。遺作も逃げた女の尻を追いかける話だが、これも宇宙の大真理を見極めんとする試みなのであろう。

 吾輩はすでに小事件を叙し了り、今また大事件を述べ了ったから、これより大事件の後に起る余瀾を描き出だして、全篇の結びを付けるつもりである。すべて吾輩のかく事は、口から出任せのいい加減と思う読者もあるかも知れないが決してそんな軽率な猫ではない。一字一句の裏に宇宙の一大哲理を包含するは無論の事、その一字一句が層々連続すると首尾相応じ前後相照らして、瑣談繊話と思ってうっかりと読んでいたものが忽然豹変して容易ならざる法語となるんだから、決して寝ころんだり、足を出して五行ごとに一度に読むのだなどと云う無礼を演じてはいけない。(夏目漱石『吾輩は猫である』)

 これは半分冗談だが「宇宙の一大哲理を包含する」のは事実、「忽然豹変して容易ならざる法語となる」のも事実だ。

 愛は迷いである。また悟りである。愛は天地万有をその中に吸収して刻下に異様の生命を与える。故に迷である。愛の眼を放つとき、大千世界はことごとく黄金である。愛の心に映る宇宙は深き情けの宇宙である。故に愛は悟りである。しかして愛の空気を呼吸するものは迷とも悟とも知らぬ。ただおのずから人を引きまた人に引かるる。自然は真空を忌み愛は孤立を嫌う。(夏目漱石『野分』)

 確かに容易ならざる法語が語られる。反対に、

 年の若い彼の眼には、人間という大きな世界があまり判切り分らない代りに、男女という小さな宇宙はかく鮮やかに映った。したがって彼は大抵の社会的関係を、できるだけこの一点まで切落して楽んでいた。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 こうした考えしかできない敬太郎は単純なものとして描かれる。

 須永の話の末段は少し敬太郎の理解力を苦しめた。事実を云えば彼はまた彼なりに詩人とも哲学者とも云い得る男なのかも知れなかった。しかしそれは傍から彼を見た眼の評する言葉で、敬太郎自身はけっしてどっちとも思っていなかった。したがって詩とか哲学とかいう文字も、月の世界でなければ役に立たない夢のようなものとして、ほとんど一顧に価しないくらいに見限っていた。その上彼は理窟が大嫌いであった。右か左へ自分の身体を動かし得ないただの理窟は、いくら旨くできても彼には用のない贋造紙幣と同じ物であった。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 夏目漱石の『坊ちゃん』をすかっとさわやか、ストレートな青春小説だと決めつけるような人にとっては、今私が書いていることもこじつけ、用のない贋造紙幣に見えるかもしれない。人はそれぞれの小宇宙に生きて、好きなものを食べている。

 ここに敬太郎の嫌いな理屈を足しておこう。

 漱石は小宇宙を眺める知恵を確かに持っていた芸術家である。断片四十二で実に奇妙なことを書いている。

    〇物、我(dual)
通俗  〇時間、空間、数
    〇因果律

    〇物我(oneness)━succession of consciousness
真実  〇Life

              〇Why the difference?
      〇Antipathy to the stoppage succession ━ the primary tendency to                      live a fact━"a blind will to live"
      〇比 tendency ハ developed?


 この断片が目に留まったのは「物、我(dual)、時間、空間、、因果律」までが通俗に投げ込まれ、真実と切り離されているからである。数が通俗とはどういうことか。多くの数学者が数とは人間の存在とは無関係に存在し、仮に知的な異星人と会話しうるのであれば、数は共通語になりうると考えている。しかし夏目漱石は数を人間が拵えたものだと断ずる。このヒントを得てもなおこの理屈が一読で理解できる人はいないだろう。この理屈は『文芸の哲学的基礎』でこう述べられる。

 (一)吾々は生きたいと云う念々に支配せられております。意識の方から云うと、意識には連続的傾向がある。(二)この傾向が選択を生ずる。(三)選択が理想を孕はらむ。(四)次にこの理想を実現して意識が特殊なる連続的方向を取る。(五)その結果として意識が分化する、明暸になる、統一せられる。(六)一定の関係を統一して時間に客観的存在を与える。(七)一定の関係を統一して空間に客観的存在を与える。(八)時間、空間を有意義ならしむるために数を抽象してこれを使用する。(九)時間内に起る一定の連続を統一して因果の名を附して、因果の法則を抽象する。(夏目漱石『文芸の哲学的基礎』)

 断片四十二の続きには、物我の一致を得ると、スペースに束縛された絵にも関わらず、スペースを超越して恍惚となる。芸術家を暇人と考えてはならぬ。人格があって初めて、立派な技巧で表現したとき、人を物我一致の極みに誘って還元的心理を悟らしむると共に、複雑な今日の発達したイデアルの領分に入り込ませてこれを感化せしむるのである……などと書かれているようだ。つまり『文学論』における第二の目的、「幻惑」が物我一致の極みとして語られ、「真善美」の理想が人格の一語に込められていると見てよいだろうか。

 だからして技巧の力を藉りて理想を実現するのは人格の一部を実現するのである。人格にない事を、ただ句を綴り章を繋つないで、上滑りのするようにかきこなしたって、閑人に過ぎません。俗にこれを柄にないと申します。柄にない事は、やっても閑人でやらなくても閑人だから、やらない方が手数が省けるだけ得になります。ただ新しい理想か、深い理想か、広い理想があって、これを世の中に実現しようと思っても、世の中が馬鹿でこれを実現させない時に、技巧は始めてこの人のため至大な用をなすのであります。一般の世が自分が実世界における発展を妨げる時、自分の理想は技巧を通じて文芸上の作物としてあらわるるほかに路がないのであります。そうして百人に一人でも、千人に一人でも、この作物に対して、ある程度以上に意識の連続において一致するならば、一歩進んで全然その作物の奥より閃き出ずる真と善と美と壮に合して、未来の生活上に消えがたき痕跡を残すならば、なお進んで還元的感化の妙境に達し得るならば、文芸家の精神気魄は無形の伝染により、社会の大意識に影響するが故に、永久の生命を人類内面の歴史中に得て、ここに自己の使命を完うしたるものであります。(夏目漱石『文芸の哲学的基礎』)

 なるほどここでも漱石は人格に触れている。こうして落語のように滑らかに語られる哲学は、〇Why the difference?といった自問自答の繰り返しの中から腐心して生まれたものだ。一から組み立てられた漱石自身の哲学だ。これはとてもまともなことではない。男と女が見つめ合う、それだけのことを書くためにここまでの深い思索がなければならなかったのだ。漱石の頭の中ではしばしば宇宙の大真理が火の車のごとく廻転しつつあったのだ。そして私にとって物我一致の極みは『こころ』の中に確かにあった。






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