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XY生 著今古堂 1905年「漱石と柳村」~恐らく最も早い漱石評




漱石と柳村

(一)

 明星といふ小雜誌あり、ホトヽギスといふ小雜誌あり、一つは醴酒の如く一つはラム子の如し、どうせ滋養にはならねど、いづれも特色のありて、小範圍の讀者に珍重せらる。この二者は全然相容れざる性質を有し、寄稿家も讀者も類を異にし、明星の後援者に上田敏先生あり、ホトヽギスの客將に夏目金之助先生あり。
 

 自から相對立して、大學の講堂外に白己の面目を發揮せるは面白し、而して世柳村先生の厚化粧の美文を知る者多けれど、漱石先生の粉飾なき散文を知る者少く學士敏の新體詩を喋々する著あれど、學士金之助の俳句或は俳体詩は、文壇の批判に上らず。これ一人は百方社會に知らるゝを勉め、一人は超然毀譽褒貶の外に遊ばんと勉むるの結果にて、兩先生の處世注はこの一事によりても察せらる。偶々今月のホトヽギスに漱石の「童謠」といふ俳體詩あり、明星に柳村の「燕の歌」と「出征」との飜譯の新體詩あり、各々其の作風を知り、文才を察し、性質を偲ぶに足る者あれば、一二節を轉戴して比較せんか。

高山の鳥栖巣だちし兄鷹のごと、

身こそたゆまね憂係に思は倦じ、

モゲル過ぎパロスの港船出して、

雄誥ぶ夢ぞ逞ましきあはれ丈夫。(出征の一節、ホセ、コリヤ、ド、コレデイヤ)


源兵衞が 練馬村から 大根を

馬の脊につけ 御歲暮に 持て來てくれた。

源兵衛が 手拭でもて股引の 

埃をはたき 臺どこに 腰をおろしてる。(童謠の二節)



 共に文科大學にてシエークスビア講ぜる人にして作風にかゝる大なる差あり。エレデイヤとか何とか、殊更に日本にあまり知れ渡らぬ作家を、我は顏に吹聽し、作中の固有名詞も、希臘以太利それぞれ原音で讀み、決して重譯の疑を容れさせぬは敏先生特得の手腕、鄙びたる言葉、今樣の詞句は厭ひ玉ひ、古語を古語をと詮索し、决して「持つて來てくれた」とか、「腰をおろしてる」などの話を用うることはない。文學評論をすれば、以太利西班牙希臘等の引用凄しく、飜譯を源氏や林艸紙にでもありさうな艶麗の文字紙上に満つ。

 夏目先生は全くこれに反し、平凡の事實を平凡に飾り氣なく寫つすを喜び、「高山の鳥栖巣だちし兄鷹のごと」などの廻りくどい語は大嫌ひにて、其のホトヽギス誌上の文章を見れば、さながら無學者の筆に成りし如く、時に冷々淡々白湯を呑むが如きことあるも、决して理屈や、ぎやうぎやうしい引例はない。

(二)

 能ある鷹は爪を隱くす。知つたか振をする者に眞に深く知れるはなし。さるに盲目千人の世の中は、頻りに橫文字交りの文章を片々たる小雜誌に揭げ、西洋文學を鼻の先きにぶら下げる手合を、直ちに博學者と思ひ込み、深く藏して沈默を守れる眞正の學者を認むるの眼力なし。夏目先生の如き現代日本有數の英文學者なれど、赤門外幾人か窮ひ知れる。これを上田先生の赤門内の不評判に反して文壇に名聲嘖々たるに比ぶれは、今更の如く社會の毀譽發貶の當てにならぬことの知面白し、先生のハムレツトの講義、文學科第一の聽物にて、其の講義振りは、ぎやうぎやうしき評論や考證はなく、如何にも自分の味はつて感じたることを正直に言ひあらはすのみ。先生曰く「西洋の大文學書を西洋人と同じやうに解釋するはとても出來得べきことではない。諸君は自から感じたる所のみを味はへばよい。西洋の批評家がかくいつたからとて、强ひて其の通りに感じやうと勉める必要はないのた。」さりとて一字一句の注意を怠ることなく、决して粗雜の讀みやうはしない、文學論とても誰れかのやうに大風呂敷は廣げむが、和漢文學も一通りは心得、殊に俳句の巧なれば、其のなだらかの講義の自から滑稽趣味を帶び樂しく面白く聽きなさる。從つて聽者甚だ多く、人望亦柳村の比にあらず。

 敏先生の「ロメオとヂユリエト」は自分の博學の吹聽は盛なれど、講義振りは蠟を嚙むが如く、時としては一時間に、カツセル版で五六枚を素讀するに止まることあり。御自分では頻りに此處が巧妙なり、彼處が意味深遠なりといへど、學生は少しも同感の思ひを起しやうがない。從つて出席者甚少なく、この次に講するといふブラウニングは一層聽く價値がなからうとの噂。先生は語學の天才があつて、洋行もせぬ身に英佛獨は更なり伊太利語にも西班牙語にも通曉せりとて、知友間に評判されるは、名譽の事ならんが、言はずともの所に、語學通を見せんとせらるゝは、通人にも似合はぬ事、日常何氣なき談話の中にも、屢々西洋語を見せびらかし、殊に吾々無學者の手前では、一層甚しいが聽手の方ではあまりよい氣持はしない。

 其の一例を擧げれば、先生曰はく「アストンの日本文學史の西鶴論を解するには、ダンテを原語で讀み得ねばならぬ。西鶴論の結末の一句ムヤムヤムヤはダンテ中のムヤムヤから引用されたので、非常の明言だ」と。Xそのムヤムヤを解し得ねば、とてもアストンを讀み得ざるべしと斷念したるが、盖し日本でアストンを味へるは敏先生只一人ならんか。

 (三)

 味噌の味噌臭き、學者の學者臭き、何れ上物でない證據。敏先生が「帝國文學」誌上に歐洲文學を論ぜし頃、同雜誌の關係者語つて曰く「上田も分りもしない伊太利語だとか、西班牙語だとかを膜列するのは惡い癖だ。内部から見てると可笑しいやうだ」と。しかしこの廣告のお蔭て、博學の譽を得たのであれば、當人は何時までもこの癖は止められぬさうな。「フランチエスカ」劇や「新曲浦島」などについて批判を加へるのはよいとして、其の態度が如何にも、自分が作者よりも一段上手にゐるやうで、氣取り屋としては確かに嘲風の壘を摩してゐる。若し自分で廣告する程趣味性に富み、文藝の修養深ければ、芝居でも小說でも理想通りに創作して、大に腕前を見せたらばよささうに思はるれど、其處はお人よしの姉崎博士とは異なり、大の利口者なれば、うつかりボロを出さず、他人の作に橫槍を入れる位で滿足の體。飜譯の如きは、有り丈の腦味噌を絞り出して、一語一句大苦心の餘に成つたのだが、人に向つては、「あれは一晩で書いたので讀み返へしもしないのだ」と自慢げに語り、全力を注げば、どれ程の名文が出來るかと思はしめるなど、江戶ツ兒といふ者、こんなに虛榮心が强いものか。一體先生の江戶ツ兒がりは田口卯吉氏の系統を引いて、洒脫を粧ひ磊落を氣取り物事に拘泥する風をし玉へど、まだまだ內心はそれ程灰汁が脫けてもゐない。

 其の證據には、世間の毀譽を空吹く風と濟ましてゐる裏には、其の爲に惱む所多く、Xの記事を讀んでも「中く盛んで面白いですなあ」とお世辭笑ひの一つ二つはし玉はんも、これは表面に過ざぬのだ。長者に取入る魂膽また拔目なく、嘗て其の著「ダンテ」を萬年先生にデヂケートして後も、この人に對する態度は注意周到との噂がある。その江戶ツ兒氣取りも甚だ用意周到にて、東京外に一步も踏み込まぬを以て任じ、田舍へ行くをさながら、流し物にでもされるつもりでゐる。

 此處に面白い一例は先頃橫濱の某學校の依頼により止むなく演說に出掛ける時妻子に對し離別の情に貼へず、殆んど水杯をもしかねまじき有樣にて、一度門口に出た後、再び後戻りして妻君と愛女瑠璃子雄の顏をつくづく眺め、涙ぐんで出られたさうである。

 これでは歐洲留學を命ぜられたらば、どんなであらうと思はれるが、元々出世の手段を見のがしてまで江戸ク兒振る程悟つてもゐまいから心配無し、海のかなたの趣味に感染して、獨逸や巴里は陳腐で、大向うも喝采すまいから、一つナボリーかべキチアの通人になり済まして痴者れどかしをなされることであらう。江戶ツ兒が伊太利シ兒に早かはりの藝當を早く見たいもの。

(四)

 上田先生曰はく「大學なんてほんとに下ない所です、學生も駄目だし制度もよろしくない。僕は大嫌ひです」と口癖のやうに外に向うていはるゝさうだが、それ程いやな大學の講師に何故なられたのであらう。若しれれの力で少しでも大學の光彩を加へて見やうといふ氣込があるのなら、今のやうな上皮すべりの講義では何の効能もなからうし、長者の鼻息を伺ふやうでは、將來も賴もしくない方だ。

 其處は夏目先生の方が悟つてゐる。てんで大學教授や文學士などを尊ときし物とも思はねば、其の地位に上らうとも勉めない、教師などになりたくはないが食ふ爲に止むを得ぬのだ」といふ主義を正直に奉じ、世間の事業とか名利とかを殆んど念頭に浮べてゐない。

 大塚博士と仲がよいのも目から性質が似てゐるからであらう。先生多く人に接するを好まず、自分の好きな書物を道樂に讀んで靜かに日を送ること多く、又氣の向いた時は夜一時までも、二時までも筆を執りて、隨感を寫つし、俳句等を作ることあり。

 一體嗜好よりいへば、教師よりも文士として毎日誰れにも累はされず勝手な事を書く方がよいのだが、生活上望通りにならぬと自白してゐる。先生のかく稍氣とか野心とかいふ者を持たぬのは、一は俳句趣味の修養に由り、一は身體の贏弱によるといふ者あり。其の日常の生活はホトゝギス誌上の「我は猫である」といふ一文によりても、一班を窺ひ得べく、久しい間神經性胃弱で、外界の騒がしき刺激に堪へず、可成世を離れて氣樂に暮らさんとするのが終生の目的。

 從つて人の訪問をも喜ばず、いやな奴が來て、長座をすると、終に堪へ得られなくなつて、露骨に「君は歸つて吳れ玉八」といひ引留言葉などついぞいひし事なし。其の代り自分の好きな人となると、何時までも語り合ひ、高濱虛子なぞとは、差向ひで首を傾け、俳句俳體詩に徹夜することもあるといふ。美的生活とか文藝尊崇説などを仰山らしく唱ふるの愚は演ぜねど、自箇一身は沈默の中に美術文學を深く味ひ、餘財なき身を以て近時の出版物を購ひ、繪畫についても鑑賞力に富み、姑崎上田兩先生に一歩も劣らぬのみ、かこれ見よがしに意見を吐き出さぬ丈でも、胸に蓄ふる所一層多からんと思はる。こんな風であれば、長上に愛せられやうと勉めもせねど、憎まれもせず、·學生に敬はれやうともせねど、嫌はれもせず、こと羨ましき生涯なり、先生も元から今の如く大悟せしにあらず、能本の高等學校にありし際は隨分學生を苦めて得意頗せし事もあつたさうな。

[出典]『文科大学学生生活』XY生 著今古堂 1905年

[付記]

 これは最も早い時期の帝大生による漱石評ということになるだろうか。後の漱石を知らない前提で書かれたものとして読むとなかなか味わい深い。そもそも評判にならないと批評の俎上にも上がらないわけなので、この段階での批評はかなり貴重なものになるのではなかろうか。

 大体夏目漱石と言えば、「夏目漱石というえらい文学者がいた」という視点で書かれている評が山ほどあって、それ以外のものはなかなか見つからない。

 此処に書かれているのは九割は上田敏の悪口だが、その悪口の効果を高めるためだとしても妙に漱石贔屓で、教師としての評判がいいことに驚く。

學士金之助の俳句或は俳体詩は、文壇の批判に上らず。」とあるが、この直後に漱石の評判が文壇でぐーんと上がるので、これを書いたXY生はさぞ愉快だったことだろう。

 ※ちなみに「XY生」という表現、「AB生」や「A生」と同様、匿名学生の表現のようで本文では「YX生」といい加減に使われている。


 これ「こころ」でいいのかな。

 なんか額が……。




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