芥川龍之介は夏目漱石をどのくらい知っていたのか① 生い立ちを知らないかも
近代文学2.0の主題は「芥川龍之介は如何に漱石文学を継承したか、或いはしなかったのか」というあたりにある。夏目漱石作品が中学生からお爺さんまでに大人気であり続けていて、なおかつ学者や作家に長年読み誤られていて、岩波書店の『定本漱石全集』の註釈は間違いだらけという頓珍漢な状況に加えて、かりに芥川龍之介までが漱石文学を継承しなかったとすると、そもそも漱石文学とは何だったのかということになりかねないからだ。
しかしそもそも芥川が直接漱石と接したのは数か月間のことであり、漱石作品との接点も曖昧なものだ。あるいは芥川は漱石にはさほど興味がなかったのではないかと疑わせるのがこの文章だ。
現在の夏目漱石ファン、ではないにしても多少なりとも夏目漱石に詳しい読者なら、この「先生のお父さん」とは誰のことかと引っかからずにはいられないだろう。一般に、昔の家庭においては一番年の若い子供が親と一緒に寝るということが珍しくない。明治期におけるコレラの大流行と云えば明治十年のことなので、この「先生のお父さん」とは実父のように計算されるところだが、さすがに十歳では親と添い寝はすまい。となると添い寝をしていたのは養父かとも思う。ところが明治十年以前にこれらの大流行の記録がないので計算が合わない。実際それが実父でも養父でも薄情なものであろうから、そのこと自体はどうでもいい。むしろ私が引っかかるのはここで芥川が何の計算もせず、どちらの父親かと迷いさえもしないことだ。
現在の我々が年譜を眺めると、漱石と芥川はともに幼い時に実父実母と引き離されるという体験をしている。芥川の『少年』などを見ると、それが実父か養父か解らない父親というものが出てくる。しかし二人ともさして屈託もなく親父と云うので、かえってどちらのことなのか解らないということがある。
しかしここで私が思うのは、案外芥川は漱石の生い立ちを知らなかったのではないかということ、そしてこの翌年芥川自身が地震に驚いて一人で逃げ出して奥さんから叱られるという奇妙な一致についてである。
例えば『道草』を丁寧に読んでも漱石の生い立ちというものは釈然としない。微妙に年がずらされているからだ。漱石はその生い立ちを隠してはいなかったであろうが、芥川がそれを理解していたかどうかは怪しいところだ。案外なんの変哲もない父と子の話としてコレラの話を聞いて、コレラの話を書いたのではなかろうか。
皮肉屋の芥川なら「そりゃ、二歳で養子に出して戻ってきた子供ですから、父親の愛情なんてないでしょう」と言ってもおかしくはないのだ。
さらに言えば「先生が父親の薄情を知ったのはそのタイミングではないでしょう」と突っ込むのが正解かもしれない。
芥川が大正十一年時点で漱石の生い立ちを知らなかったのでなければ、この話は引っかかる。引っかからないとすれば、やはり芥川は漱石の生い立ちに興味がなく、その手の話を知りたがりもしなかったのではなかろうか。
仮に『道草』を芥川が「ふーん」と読んでいたとしたらこうなる。
太宰治と三島由紀夫は森鴎外の凄さには気が付いた。しかし夏目漱石には「ふーん」した。つまり二郎が一郎と直の縁談の際にいい加減なお使いをしたであろうことに気が付かなかった。三四郎にとって美禰子は森の女ではなく池の女であることには気が付かなかった。代助が生きたがる批評家になったことに気が付かなかった。『門』ではずっと花が隠されていて、最後に出てくることに気が付かなかった。太宰治や三島由紀夫でさえ気が付いていないのである。
芥川龍之介はどうだったのだろうと考え続けて、現時点で私は荒涼な地平に一人で立っているというよりは、都会の雑踏で無害なゾンビの群れが行き過ぎるのを見ているような気分でいる。「読書好き」を自任し、漱石ファンを公言しているその人こそが漱石文学を「ふーん」していないだろうか。
おそらく芥川龍之介は『こころ』を読めていない。そして『道草』を読んでいたとして、健三が捨て子のように仄めかされていることにが付いていないとしたら、そもそも近代文学なるものが存在していたと言えるだろうか。
近代文学とは近畿大学文学部のことではないのか。
きっとそうだ。
[余談]
ツイートをいいねしてくれた「小説家」を自称する人がいたので、念の為見に行ったら、どうも趣味で小説をブログに書いている単なる主婦だった。そういう意味では私も単なる投資家に過ぎないが、それにしても安く見られたものだ。
こういう人たちは永遠にこんなことには気が付かないだろう。
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