『彼岸過迄』を読む 4373 丁年未満の呑気生活
文明批評が影を潜めた?
この『彼岸過迄』という作品も何百万人もの人に眺められた筈ですが、例えば「読書メーター」などではわずかな感想しか見られません。感想を書いて居る人達はいずれもそこそこの読書家らしく、それだけ『彼岸過迄』が敷居の高い作品であるということなのかなと思います。「To the Spring Equinox and Beyond」という英訳本が2004年にも出版されています。こちらにはまだレビューがありません。夏目漱石作品の中でも『彼岸過迄』はまだまだ世界的には注目されていないようです。
さてその「読書メーター」の中で半藤一利が「文明批評が影を潜めた」と評していると指摘している旨の書き込みがありました。その事実は確認しておりませんけれども、
例えば須永市蔵が軍閥のコネクションを利用して兵器産業のフィクサーの地位を得た田口要作を良しとはおもっていなかったのではないかとか、
天とか、人道とか、もしくは神仏まで持ち出して天皇及び制度としての明治政府と「良民」と対峙させたと読めば、十二分に文明批判的なわけです。何もモモンガ―といえば文明批判的というわけではありません。
陽画としての『彼岸過迄』はその社会の上澄み部分を描いています。しかし陰画の部分、つまり仄めかしでは例えば森本の生い立ちに関して、
彼はもう三十以上である、と田川敬太郎から見える森本の十五六年前の話は、まだ丁年未満の過酷な労働を過少誇張法と過大誇張法で呑気生活の御話に変えてしまいます。どこかで蛸狩りの話を面白がる中学生がいれば、またどこかで六メートルを超える高さの熊笹を切り開いて途をつける子供がいたわけなのですが、十五六年前という数字は「呑気生活」という言葉で意味を消されてしまいます。
熊笹の二丈は嘘(精々1~2メートル)でしょうが、十五六年前というのは本当でしょう。その森本が「何しろ商売が商売だから身体は毀す一方ですよ」と不平を漏らして大連に渡る時代というものを『彼岸過迄』は確かに描いています。
また、
高等遊民という問題をこの位はっきり捉えた作品もほかにないと思います。これからさらに時代が下れば芥川龍之介の家に失業した労働者が金の無心にくるようなことになるわけですから、高等遊民問題など優雅な話だという感覚もないではありませんが、この「何だ銀行へ這入って算盤なんかパチパチ云わすなんて馬鹿があるもんか」といった意識は、現代のポスドクや院生の生活苦の問題の裏返しでもあるわけです。
承認をめぐる闘争?
これは集英社文庫版の解説による色付けで、どうもそのまま、そのフレームで理解してしまう人がいるようです。そもそも『彼岸過迄』は捉えがたい話なので「承認」というキーワードを一つ置くことで分かりやすくなるということはあると思います。
なるほど「承認」かと感心した人には申し訳ないんですが、この「承認」というキーワードは殆どの人間関係のややこしさを描いた作品にそのまま応用できますね。
例えば代助は「僕はそれを貴方に承知して貰いたいのです。承知して下さい」と三代子に言います。人間関係なんてそもそも「承知・不承知」の世界ですね。
しかしまあ、それで納得できたのなら、後は中身を見て行けばいいと思います。そこで終わりではなく。
一つのキーワードは作品のある側面しか照らしません。
そういう論評が「鋭い」と言われるのですが、では「承認」で「蛸の単調」が解釈できるかと言えばできないわけです。
いろんな側面を見て行くとどうしても「鈍い」感じになってしまいます。しかし五目焼きそばの烏賊だけ食べるわけにはいかないでしょう。
[余談]
この「一つのキーワードで作品を読み解くこと」については別の機会にもう少し掘り下げますね。そうしなければ辿り着けない意味があることもまた確かで、実際章ごとにはある角度をつけて私自身が書いていることもまた確かなので。
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