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芥川龍之介の『河童』をどう読むか③   だから蛙なんだ

 芥川の『河童』が寺田寅彦の河童像に反して、亀ではなく蛙の化け物として描かれていて、痩せすぎていて、黴毒のことはそんなに深刻に考えなくてもいいのではないかと書いた。
 むしろ芥川には明確に蛙の化け物としての河童を描こうという意思があり、そのために河童の言語は、

「Quax, Bag, quo quel, quan?」

(芥川龍之介『河童』)

 このように「qu」が意識して使われていて、あたかもケロケロという蛙の啼き声を模しているかのようである。

 また、

 しかし一番不思議なのは河童の皮膚の色のことでしょう。河童は我々人間のように一定の皮膚の色を持っていません。なんでもその周囲の色と同じ色に変わってしまう、――たとえば草の中にいる時には草のように緑色に変わり、岩の上にいる時には岩のように灰色に変わるのです。これはもちろん河童に限らず、カメレオンにもあることです。あるいは河童は皮膚組織の上に何かカメレオンに近いところを持っているのかもしれません。僕はこの事実を発見した時、西国の河童は緑色であり、東北の河童は赤いという民俗学上の記録を思い出しました。

(芥川龍之介『河童』)

 こうした赤と緑の対比ならぬカメレオン的皮膚の色の変化と云うものは、やはり亀ではなく蛙の特質の一つでもある。


 河童と蛙の対比、これは作中、

「その河童はだれかに蛙だと言われ、――もちろんあなたも御承知でしょう、この国で蛙だと言われるのは人非人という意味になることぐらいは。――己は蛙かな? 蛙ではないかな? と毎日考えているうちにとうとう死んでしまったものです。」
「それはつまり自殺ですね。」
「もっともその河童を蛙だと言ったやつは殺すつもりで言ったのですがね。あなたがたの目から見れば、やはりそれも自殺という……」

(芥川龍之介『河童』)

 こうしたいわば人格ならぬ河童格に関わる問題として捉えられている。これは『歯車』との関係で言えば「屠竜の技」という言葉が示す通り伝説の生き物・竜など本当は実在せず、麒麟児と呼ばれた寿陵余子がにょろにょろ君、または蛆虫に過ぎないことと対を無し、伝説の生き物・河童の本質的な虚構性を指摘しているかのようでもある。

 しかし『河童』では、ただ伝説上の架空の存在として河童が描かれるだけではなく、どう考えても情けない「超河童」までが描かれる。

 超人倶楽部に集まってくるのは詩人、小説家、戯曲家、批評家、画家、音楽家、彫刻家、芸術上の素人等です。しかしいずれも超人です。彼らは電燈の明るいサロンにいつも快活に話し合っていました。のみならず時には得々と彼らの超人ぶりを示し合っていました。たとえばある彫刻家などは大きい鬼羊歯の鉢植の間に年の若い河童をつかまえながら、しきりに男色をもてあそんでいました。またある雌の小説家などはテエブルの上に立ち上がったなり、アブサントを六十本飲んで見せました。もっともこれは六十本目にテエブルの下へ転げ落ちるが早いか、たちまち往生してしまいましたが。

(芥川龍之介『河童』)

 やっていることは月並みながら、それを自慢して「超河童」を気取ってしまえば、それは吉野家の紅しょうがを容器から直接食べたり、スシローのポテトをつまみ食いする人間と同じくらい馬鹿だ。おそらく「超河童」とはそういうことではなかろう。
 あるいはそれは蛙が河童たらんとすることほど馬鹿げたふるまいだ。そして蛆虫が竜を気取ることにも似ている。


 僕はエムペドクレスの伝を読み、みづから神としたい欲望の如何に古いものかを感じた。僕の手記は意識してゐる限り、みづから神としないものである。いや、みづから大凡下の一人としてゐるものである。君はあの菩提樹の下に「エトナのエムペドクレス」を論じ合つた二十年前を覚えてゐるであらう。僕はあの時代にはみづから神にしたい一人だつた。

(芥川龍之介『或旧友へ送る手記』)

 そのいささかだらしなく皮肉られた「超河童」たちの姿は、到底大凡下の一人になることなど許されなかった或る天才作家の自己諧謔の反映でもあるのだろう。

 この河童の国のアイデアそのものは、大正五年十一月、デビュー間もないころに書かれた『MENSURA ZOILI』からそう遠くないところにある。

「そうですとも。ゾイリアと云えば、昔から、有名な国です。御承知でしょうが、ホメロスに猛烈な悪口をあびせかけたのも、やっぱりこの国の学者です。今でも確かゾイリアの首府には、この人の立派な頌徳表が立っている筈ですよ。」
 僕は、角顋の見かけによらない博学に、驚いた。
「すると、余程古い国と見えますな。」
「ええ、古いです。何でも神話によると、始は蛙ばかり住んでいた国だそうですが、パラス・アテネがそれを皆、人間にしてやったのだそうです。だから、ゾイリア人の声は、蛙に似ていると云う人もいますが、これはあまり当てになりません。記録に現れたのでは、ホメロスを退治した豪傑が、一番早いようです。」
「では今でも相当な文明国ですか。」
「勿論です。殊に首府にあるゾイリア大学は、一国の学者の粋を抜いている点で、世界のどの大学にも負けないでしょう。現に、最近、教授連が考案した、価値測定器の如きは、近代の驚異だと云う評判です。もっとも、これは、ゾイリアで出るゾイリア日報のうけ売りですが。」

(芥川龍之介『MENSURA ZOILI』)

 人は蛙から進化し、さらに河童に進化すべき生きものなのかもしれない。そのアイデアはさして格別なものではないかもしれないが、『河童』を本物の価値測定器、MENSURA ZOILIに載せればすぐ針が最高価値を指さすだろう。


 何が凄いって、繰り返し死が、あるいは自殺が仄めかされながら、そしてあたかも自虐的パロディ作品のような体裁を取りながら、第二十三号は自殺しないのだ。

もしまただれか僕の筆記に飽き足りない人があるとすれば、東京市外××村のS精神病院を尋ねてみるがよい。

(芥川龍之介『河童』)

 こう予告されていたのに改めて、あ、自殺しないんだ、と気が付いてしまうと、河童聖人は「ぱらいそ」(天国)ではなく、河童の国の精神病院にまだ生きているような気がして来る。小穴隆一が指摘する通り、明確に自殺が意識された時期が大正十五年七月だとしたら、以来『温泉だより』でジャイアント馬場より大きな大工が自殺したことに始まり、繰り返し自死のイメージがはめ込まれた作品を書き続けながら『河童』の語り手は死なない。

 あ、自殺しないんだ
、と気が付いた人にだけ、『河童』はささやかに落ちている。おそらく『河童』という作品の肝はそこにある。


 今日は芥川の「あ」の字だけ覚えて帰ってください。



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