芥川の『河童』が寺田寅彦の河童像に反して、亀ではなく蛙の化け物として描かれていて、痩せすぎていて、黴毒のことはそんなに深刻に考えなくてもいいのではないかと書いた。
むしろ芥川には明確に蛙の化け物としての河童を描こうという意思があり、そのために河童の言語は、
このように「qu」が意識して使われていて、あたかもケロケロという蛙の啼き声を模しているかのようである。
また、
こうした赤と緑の対比ならぬカメレオン的皮膚の色の変化と云うものは、やはり亀ではなく蛙の特質の一つでもある。
河童と蛙の対比、これは作中、
こうしたいわば人格ならぬ河童格に関わる問題として捉えられている。これは『歯車』との関係で言えば「屠竜の技」という言葉が示す通り伝説の生き物・竜など本当は実在せず、麒麟児と呼ばれた寿陵余子がにょろにょろ君、または蛆虫に過ぎないことと対を無し、伝説の生き物・河童の本質的な虚構性を指摘しているかのようでもある。
しかし『河童』では、ただ伝説上の架空の存在として河童が描かれるだけではなく、どう考えても情けない「超河童」までが描かれる。
やっていることは月並みながら、それを自慢して「超河童」を気取ってしまえば、それは吉野家の紅しょうがを容器から直接食べたり、スシローのポテトをつまみ食いする人間と同じくらい馬鹿だ。おそらく「超河童」とはそういうことではなかろう。
あるいはそれは蛙が河童たらんとすることほど馬鹿げたふるまいだ。そして蛆虫が竜を気取ることにも似ている。
そのいささかだらしなく皮肉られた「超河童」たちの姿は、到底大凡下の一人になることなど許されなかった或る天才作家の自己諧謔の反映でもあるのだろう。
この河童の国のアイデアそのものは、大正五年十一月、デビュー間もないころに書かれた『MENSURA ZOILI』からそう遠くないところにある。
人は蛙から進化し、さらに河童に進化すべき生きものなのかもしれない。そのアイデアはさして格別なものではないかもしれないが、『河童』を本物の価値測定器、MENSURA ZOILIに載せればすぐ針が最高価値を指さすだろう。
何が凄いって、繰り返し死が、あるいは自殺が仄めかされながら、そしてあたかも自虐的パロディ作品のような体裁を取りながら、第二十三号は自殺しないのだ。
こう予告されていたのに改めて、あ、自殺しないんだ、と気が付いてしまうと、河童聖人は「ぱらいそ」(天国)ではなく、河童の国の精神病院にまだ生きているような気がして来る。小穴隆一が指摘する通り、明確に自殺が意識された時期が大正十五年七月だとしたら、以来『温泉だより』でジャイアント馬場より大きな大工が自殺したことに始まり、繰り返し自死のイメージがはめ込まれた作品を書き続けながら『河童』の語り手は死なない。
あ、自殺しないんだ、と気が付いた人にだけ、『河童』はささやかに落ちている。おそらく『河童』という作品の肝はそこにある。
今日は芥川の「あ」の字だけ覚えて帰ってください。