芥川龍之介の『少年』をどう読むか①「クリスマス」
エッセイではない
ついさっき、
芥川龍之介の「保吉もの」は吉田精一によって「身辺雑記的私小説」と定義されてしまったため小説としての構造や意匠が見落とされている。
……などと書いた。例えば、
例えば『歯車』を読んで閃輝暗点を疑う人は、ここでも小人が見える幻覚 lilliputian hallucinationやレビー小体型認知症が疑われるとやってしまいかねないが、実際はそういうことではなかろう。これを幻覚の告白と読んでしまうことにはさして意味はない。
ならばジョナサン・スウィフトや稲垣足穂は幻覚を見たのかと言えば、けしてそうではなく、ただそれぞれ小説(足穂の方は詩的散文と言って良いと思うが)を書いたのだ。
例えば芥川龍之介の『金将軍』に「八兆八億の兵」という言葉が出て來る。これを「芥川の数のスケール感は異常だ」といってしまうと馬鹿になれる。ここは八道を攻め上る大軍を意味するに過ぎない。
保吉も、そして芥川も実際に天使を見たわけではない。これを『少年』だから認め『歯車』では認められないという人は、もう少し冷静に考えた方がいい。
第一章「クリスマス」は十二月二十五日をイエス・キリストの誕生日だと勘違いしているカトリック教の宣教師と保吉の関東大震災後の風景である。これを芥川自身が、
……とやっているから良くない。少しも小狡さのない、育ちのいい、疑うことを知らない善良な読者は、書いてあることをそのまま受け取ってしまいかねない。よくよく考えてみよう。果たしてクリスマスをイエス・キリストの誕生日だと勘違いしているカトリック教の宣教師など存在するものだろうか。いや、正確に読んでみよう。
厳密にはカトリック教の宣教師は「世界中のお祝いする」「お誕生日です」と言ったのであり、ここに「イエス・キリストの」を挿入していない。その日は「世界中のお祝いする」日なのであり、このお嬢さんの「お誕生日」なのだ。
この「お誕生日」を、イエス・キリストの誕生日にしてしまっているのは保吉なのだ。
聖書を読んでいた気配のある芥川龍之介がクリスマスを「降誕祭」ではなく「誕生日」だと勘違いしていた可能性はどのくらいあるものだろうか。そしてカトリック教の宣教師が、勘違いしていた可能性はどのくらいあるものだろうか。
この程度の知識は当時の知識人にとってはむしろ常識の範疇ではなかろうか。
このEssai sur les ……はエッセイではなく、「……に関する試論」と注が付いている。つまりこの仏蘭西人の宣教師は、ぴんからきりまである宣教師の中で、比較的勉強をしているタイプのようである。それで五十歳を越してクリスマスの意味を知らないということはまさかなかろう。そういう設定になっている。つまり、これを講談本か何かを読んでいる若い日本人の宣教師にしなかった芥川も、ここに「保吉の誤解」を仕掛けているとは考えられないだろうか。
これまで私は「保吉もの」が身辺雑記ではなく、五六年前以前に設定を置いた回顧的な書き方をされていることを指摘してきた。失われた過去が描かれることによって、書かれている時代と書いている時代の距離の中に物語構造が現れることを見てきた。この「クリスマス」では「そんなことはどうでも好いい」とされるのが「深川はまだ灰の山」「お姫様の婬売が出る」という書いている時代である。
そんなことはどうでもいい、煙草を一本吸っている間にさらさらっと書きますよと言って、Essai sur les ……と仕掛けてくるのが逆説好きの芥川の流儀であることは、もうそろそろ信じてもらってもいい頃だろう。これはエッセイではない。小説とは何か、自らが生涯をささげる覚悟をした小説とは何かを試みるパッションだ。
何しろこの作品が書かれてから、後二年で百年だ。
百年、もうそろそろ……。
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