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夏目漱石の『虞美人草』のWikipediaに物申す


その頃、小野は藤尾と約束した駆け落ちを果たすべきか迷っていた。そこに宗近が乗り込む。そして人の道を説き、真面目になるべきだと懇々と説得する。
欽吾は甲野家を出る意志を固める。糸子が迎えに来ていた。父の肖像画だけを持って家を出ようという欽吾に継母は世間体を口にして押し留める。其処に宗近と小野、小夜子が連れだって現れる。そして小野が連れた小夜子こそが彼の妻となる女性だと紹介する。一方、待てども待ち合わせに現れない小野に業を煮やした藤尾は甲野家に戻り、小夜子を伴った小野に対面。謝罪された上で小夜子が自分の妻となる女性と紹介される。藤尾は宗近に見せつけるように金時計を取り出すが、宗近からこんなものが欲しくて酔狂な真似をしたのではないと突き放される。
藤尾は毒をあおって自死した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%9E%E7%BE%8E%E4%BA%BA%E8%8D%89

 今回は、このクライマックス一か所のみについて物申します。この箇所、本文では、

「じゃ、これはあなたには不用なんですね。ようござんす。――宗近さん、あなたに上げましょう。さあ」
 白い手は腕をあらわに、すらりと延びた。時計は赭黒い宗近君の掌に確と落ちた。宗近君は一歩を煖炉に近く大股に開いた。やっと云う掛声と共に赭黒い拳が空に躍る。時計は大理石の角で砕けた
「藤尾さん、僕は時計が欲しいために、こんな酔興な邪魔をしたんじゃない。小野さん、僕は人の思をかけた女が欲しいから、こんな悪戯をしたんじゃない。こう壊してしまえば僕の精神は君らに分るだろう。これも第一義の活動の一部分だ。なあ甲野さん」
「そうだ」
 呆然として立った藤尾の顔は急に筋肉が働かなくなった。手が硬くなった。足が硬くなった。中心を失った石像のように椅子を蹴返して、床の上に倒れた。(夏目漱石『虞美人草』)

 とあり、まず金時計が砕かれたことを確認しなくてはならないでしょう。それすなわち「突き放される」ってことじゃないかという意見はあるとして、具体を見て抽象を読むということを今回はやってみたいと思うんですね。つまり「突き放される」ってあるのを「両手を素早く前に突き出して藤尾の胸を強く押した」と読んじゃいけないということです。

 で、いよいよ「藤尾は毒をあおって自死した」なんですが、ここに物申したいんです。夏目漱石という人は今でも大人気でいくつもの出版社から主要な作品が文庫本で売られているものですから、何人もの「解説」を読むことが出来ます。そうすると小森陽一さんがただ一人「漱石に殺された」と書いているだけで、その他の人はみな「自殺」「毒薬を飲んで自殺」と書いているのを誰でも簡単に確認できるんですね。大きな本屋さんに行けば小一時間で確認できますよ。みなさんやってみてください。石原千秋さんしても『激読! 漱石』で自殺説を取ります。しかし本文はこうです。

 春に誇るものはことごとく亡ぶ。我の女は虚栄の毒を仰いで斃れた。花に相手を失った風は、いたずらに亡き人の部屋に薫り初める。(夏目漱石『虞美人草』)

 確かにここには「毒」の文字があります。しかしその前に「虚栄」の文字があります。「虚栄」の文字は作中二度現れます。もう一つは「虚栄の市」です。「虚栄の市」とは何でしょうか? 中国人の虚栄さんが経営するスーパーマーケットでしょうか? 違いますね。

玩具にされたのならこのままでは置かぬ。我がは愛を八つ裂きにする。面当はいくらもある。貧乏は恋を乾干しにする。富貴は恋を贅沢にする。功名は恋を犠牲にする。我は未練な恋を踏みつける。尖る錐に自分の股を刺し通して、それ見ろと人に示すものは我である。自己がもっとも価ありと思うものを捨てて得意なものは我である。我が立てば、虚栄の市にわが命さえ屠る。逆まに天国を辞して奈落の暗きに落つるセータンの耳を切る地獄の風はプライド! プライド! と叫ぶ。――藤尾は俯向きながら下唇を噛んだ。(夏目漱石『虞美人草』)

 さて、藤尾は自分の股を錐で刺したのでしょうか? それで失血多量で死んだ? いえいえ、これは「抽象的な表現」ですよね。虚栄の市で虚栄の毒が売られている訳ではありません。つまり「藤尾は毒をあおって自死した」という解釈は「抽象的な表現」を「具体的な表現」と取り違えた読み誤りということなります。

 理屈を言えば我の女がしおらしく自殺などするわけはありません。倒れてから毒を用意する手はずが解りません。あらかじめ毒を用意する理由がありません。大森に行く予定もありました。

 また夏目漱石自身がこのクライマックスの部分に関して「二つか三つのものが合わさって爆発する」と談話で説明しています。ここは正確に引用しましょうか。

〇え?『虞美人草』の書き方ですか。格別そんな事を考へたのでもないのです。複雜なラヴ·アツフエアズ其ものを描いたものとしては極幼稚なものでせう。又ラヴ丈を書いたものでもないのですからね。ぢや狙つたものは何かといふのですか。-さうですね。ラヴも書いちや居ますがね。ラヴ丈を描く積りならもう少し遣り方もあつたでせう。つまりあれはね、ラヴといふものを唯一のインテレストとして貫いたものぢやないから、戀愛事件の發展として見ると中々不完全です。夫なら何處が完全かと云はれると益弱る譯だが、つまり二つか三つかのインテレストの關係が互に消長して、夫が仕舞に一所に出逢つて爆發するといふ所を書いたのです。書いたのぢやない、書いた積りなのです。


 金時計とともに藤尾のプライドが砕け散り、文字通り「憤死した」というのが正解ではないでしょうか。






 何故か「俺様の知らないことなどあり得ない」みたいな人がいるようですが、そんなことはないですからね。それ知ったかぶりですから。




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