時計がないんで何時だか分らない
ここはぎりぎり読みすぎてはいけないところ。この「時計がないんで」というのは、
という辺りと考え合わせると、
こんな形で財布のようにどこかに消えてしまったのではなかろうか。無論ここは書かれていないところなので読みすぎはいけない。しかし「時計がないんで」と言われてみると改めて蟇口のゆくえが気になる。主人公は気にしていない。そこからも主人公が、何も知らない坊ちゃんであることが伝わってくるように思える。
自分は色盲じゃないか
ここはこれまでの漱石作品とこれからの漱石作品を考えて行く上でかなり引っかかるところだ。
まず苦沙弥先生は吾輩をなんともいえぬ色に描く。『虞美人草』では柘榴石を当初「緑りの珠」と書いてしまっている。『野分』では「竹藪の傍へ持って行くと非常にあざやかに見える」「透明な秋の日に照らして見ないと引き立たない」着物の色を何色か明言しない。『三四郎』でも徹底して色を隠す。さらには三四郎は青と赤と間違えて旗を振る。
それでいて『それから』では妙に緑と赤の対比に拘る。
少々拘り過ぎではなかろうか。
少なくとも柘榴石を「緑りの珠」と書いてしまっては、色には無頓着な性質では済まない。案外ここには自己諧謔が隠れていないものだろうか。
こっちがシキだよ
ここは今更ながら書簡集を読んだ者なら痺れるところ。ここは岩波もシキの説明ではなく執筆工程に言及してほしいところ。
小宮豊隆宛ての書簡で、
と書いているのだ。つまり入稿したての原稿にミスがあることを控え無しに気がついて、そのミスをした箇所を直そうというのだ。そりゃ、ぼんやりと間違えたような気がすることはあるかもしれないが、日々嘘話を書き続けていて、書いたこととまだ書いていないことを全部記憶するのは並大抵のことではない。漱石の一次記憶、メモリー、脳内の作業台の大きさが分かるエピソードだ。
そしてそういう前提で「よそよそしい頭文字」も理解しないといけないという教訓が生まれるところでもある。
家族のあるものに限って貸してくれる
これは作品解釈上の要点ではないが、本来註釈が欲しいところ。宿なしの食い詰め者が集められていく様子から、ついシキには一人ものしかいないようなイメージでいたところ、当然のことかもしれないが坑夫にも家族があるのだ。
そういえば、
こうした新しい町までできているのだから、鉱山堀りという産業が人を集めていたことは確かなのだ。
何だかとんでもないところに連れていかれているようでありながら、そこはやはり人間が住む場所で、人でなしの国ではないということだ。
シキでも飯場でもジャンボーでも
意味なんか聞く閑もなし、答える閑もなし、調べるのは大馬鹿と言われてみると、兎に角意味をこれでもかと調べているのが少しは馬鹿らしくなる。ただ少しだ。
そう書きながら即座に「ジャンボー」を調べている。
岩波はこれを、
と説明している。しかしそもそも主要な国語辞典に「鐃鈸」の説明がない。
音の聴き取りの問題なので様々な表記が生まれているようだ。
[余談]
西洋にも鐃鈸はあり、吉事に用いられたようだ。それにしても「ジャンボー」式の葬式がいつまであり、いつ廃れたのか知りたいところ。