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芥川龍之介の『歯車』をどう読むか⑲ 家庭的小説と過程的小説と仮定的小説

家庭的小説としての『歯車』

 

 どうせあいつは出鱈目なやつだからと一言に拒絶するのでなければ、坂口安吾の夏目漱石批判は大抵の家庭的小説に突き刺さる。ここで家庭的小説と言ってみるのは家庭小説という文学史上の一ジャンルがあったからで他意はない。家庭小説などというジャンルが消滅した現在では家庭的小説という表現はどうも間が抜けているけれども仕方がない。

かてい‐しょうせつ【家庭小説】(‥セウセツ) 家庭婦人などを対象として明治三〇年代に流行した通俗小説の一種。穏健な家庭道徳を素材とした長編が多い。菊池幽芳の「己が罪」、草村北星の「浜子」など。

広辞苑


 安吾の漱石批判を再度引用しなおせば、

 夏目漱石という人は、彼のあらゆる知と理を傾けて、こういう家庭の陰鬱さを合理化しようと不思議な努力をした人で、そして彼はただ一つ、その本来の不合理を疑ることを忘れていた。つまり彼は人間を忘れていたのである。かゆい所に手がとどくとは漱石の知と理のことで、よくもまアこんなことまで一々気がつくものだと思うばかり、家庭の封建的習性というもののあらゆる枝葉末節のつながりへ万べんなく思惟がのびて行く。だが習性の中にも在る筈の肉体などは一顧も与えられておらず、何よりも、本来の人間の自由な本姿が不問に附されているのである。人間本来の欲求などは始めから彼の文学の問題ではなかった。彼の作中人物は学生時代のつまらぬことに自責して、二、三十年後になって自殺する。奇想天外なことをやる。そのくせ彼の大概の小説の人物は家庭的習性というものにギリギリのところまで追いつめられているけれども、離婚しようという実質的な生活の生長について考えを起した者すらないのである。彼の知と理は奇妙な習性の中で合理化という遊戯にふけっているだけで、真実の人間、自我の探求というものは行われていない。自殺などというものは悔恨の手段としてはナンセンスで、三文の値打もないものだ。より良く生きぬくために現実の習性的道徳からふみ外れる方が遥かに誠実なものであるのに、彼は自殺という不誠実なものを誠意あるものと思い、離婚という誠意ある行為を不誠実と思い、このナンセンスな錯覚を全然疑ることがなかった。そして悩んで禅の門を叩く。別に悟りらしいものもないので、そんなら仕方がないと諦める。物それ自体の実質に就てギリギリのところまで突きとめはせず、宗教の方へでかけて、そっちに悟りがないというので、物それ自体の方も諦めるのである。こういう馬鹿げたことが悩む人間の誠実な態度だと考えて疑ることがないのである。日本一般の生活態度が元来こういうフザけたもので、漱石はただその中で衒学的な形ばかりの知と理を働かせてかゆいところを掻いてみただけで、自我の誠実な追求はなかった。

(坂口安吾『デカダン文学論』)

 家庭小説にしろ家庭的小説にしろ、「離婚という誠意ある行為を不誠実と思い」と批判されてしまうとひとたまりもない。しかしこの安吾の漱石批判は漱石作品全体に嵌るわけでもない。確かに『それから』の代助は世間に反して友人の人妻を求め、それを自分にとっては自然だと言い張って見せたのだ。
 その程度のわがままが許されるとしたら、『歯車』には確かに家庭的小説としての一面がある。主人公の「僕」は冒頭から「或知り人の結婚披露式につらなる為に東海道の或停車場へその奥の避暑地から自動車を飛ばした」。

 知り人の結婚披露式とはなんと家庭的であることか。

 結婚?

 生涯未婚率、子なし率、独居老人、デート未経験者が年々増加する現在でこそ、それは当たり前のことではないが、確かに昔はそんなものをいちいち家庭的とは見做せなかった。人は家族の中にあり、結婚とは当たり前のことだった。

 坂口安吾の個人生活はどうでもよろしい。

 しかし習性的道徳なり、人間本来の欲求と言われてしまうと、そこには一理を認めざるを得ない。『明暗』の津田は昔の恋人らしき清子を痔瘻の手術の湯治にかこつけて温泉宿迄追い回す。よせばいいのにと思うのが習性的道徳であり、風呂場で待ち伏せするのが人間本来の欲求なのだろう。

 しかし結婚披露式なのに「僕」は伴侶と一緒に臨席してはいないようだった。ここで家庭的なところから浮遊する。しかし宿泊先兼仕事場のホテルには家庭が飛び込んでくる。姉の娘から突然電話が勝ってくるのだ。叔母さんにも電話をかけたという。叔母さんとは「僕」の妻だろう。そして、こんなことを言われてしまう。

「ええ、あの大へんなことが起ったんです。ですから、……大へんなことが起ったもんですから。今叔母さんにも電話をかけたんです」
「大へんなこと?」
「ええ、ですからすぐに来て下さい。すぐにですよ」 

(芥川龍之介『歯車』)

 姉の娘とは姪だ。姪は「僕」に大へんなことを告げる。

僕の姉の夫はその日の午後、東京から余り離れていない或田舎に轢死していた。

(芥川龍之介『歯車』)

 いや、それは大変だ。
 しかし……すぐに行ってどうなるというのだ。この姪は一体何を求めているのだ。姉の夫の轢死、それは確かに大変なことなのだが、この姪の求めていたものは、大切な家族の一人が死んだという知らせに何はともあれ駆けつけねばならないという、何ら合理性もない一つの信念なのだ。

 そこで「僕」はいったん反家庭的なふるまいを試みる。

電話はそれぎり切れてしまった。僕はもとのように受話器をかけ、反射的にベルの鈕を押した。しかし僕の手の震えていることは僕自身はっきり意識していた。給仕は容易にやって来なかった。僕は苛立たしさよりも苦しさを感じ、何度もベルの鈕を押した。やっと運命の僕に教えた「オオル・ライト」と云う言葉を了解しながら。
 僕の姉の夫はその日の午後、東京から余り離れていない或田舎に轢死していた。しかも季節に縁のないレエン・コオトをひっかけていた。僕はいまもそのホテルの部屋に前の短篇を書きつづけている。真夜中の廊下には誰も通らない。が、時々戸の外に翼の音の聞えることもある。どこかに鳥でも飼ってあるのかも知れない。

(芥川龍之介『歯車』)

 ここにある省略について、私は既にこう書いている。

 主人公が給仕に命じたことは定かではない。しかし「僕はいまもそのホテルの部屋に前の短篇を書きつづけている」のであれば、「今夜はもう、外から電話は取り継がないでくれ」と命じたのではなかろうか。

 もしもそうであればここで「僕」は何はともあれ駆けつけねばならないという習性的道徳を棄て去り、自分の繭にこもったことになる。

 これが物語構造の「はじめ」「まんなか」「おわり」の「はじめ」の部分だ。

 しかしどうやら「A先生」つまり「僕」には浮気なり不倫なりの罪があるらしい。つまりそもそも「僕」は反家庭的だったのだ?
 いや、そうではなかろう。『痴人の愛』を見てみればよい。そう、大正十三年に書かれた『痴人の愛』を芥川龍之介が読まないわけにはいかなかっただろうに。

 しかし「僕」は「あらゆる罪悪を犯していることを信じていた」。「僕は罪を犯した為に地獄に堕ちた一人に違いなかった」。なんと大袈裟な。確かに「僕」は習性的道徳に囚われ、家庭に囚われていた。地獄や罪は、そういうものなしでは生まれないことを『痴人の愛』はこんこんと説いてきたにも拘わらず。

 けれども僕は夢の中に或プウルを眺めていた。そこには又男女の子供たちが何人も泳いだりもぐったりしていた。僕はこのプウルを後ろに向うの松林へ歩いて行った。すると誰か後ろから「おとうさん」と僕に声をかけた。僕はちょっとふり返り、プウルの前に立った妻を見つけた。同時に又烈しい後悔を感じた。
「おとうさん、タオルは?」
「タオルはいらない。子供たちに気をつけるのだよ」
 僕は又歩みをつづけ出した。

(芥川龍之介『歯車』)

 妻から「おとうさん」と呼ばれる「僕」は父である。こんな妻は夫の父親をきっと「おじいさん」と呼ぶのだろう。人間関係が子供中心に出来上がった平凡な家庭の中で、父はます子供のことを気遣わなくてはなるまい。夢の中でさえ。なんたる家庭的な「僕」であることか。

 そしてふと思えば『国境の南、太陽の西』以来久々に妻帯者として現れた『騎士団長殺し』の話者は、やはり久々に「僕」ではなく「私」と自称していなかっただろうか。いや、妻帯者でなくても流石に『ドライブマイカー』の主人公家福はさすがに「僕」とは言わなかったのではなかろうか。

 そこへ誰か梯子段を慌しく昇って来たかと思うと、すぐに又ばたばた駈け下りて行った。僕はその誰かの妻だったことを知り、驚いて体を起すが早いか、丁度梯子段の前にある、薄暗い茶の間へ顔を出した。すると妻は突っ伏したまま、息切れをこらえていると見え、絶えず肩を震わしていた。
「どうした?」
「いえ、どうもしないのです。……」
 妻はやっと顔を擡げ、無理に微笑して話しつづけた。
「どうもした訣ではないのですけれどもね、唯何だかお父さんが死んでしまいそうな気がしたものですから。……」
 それは僕の一生の中でも最も恐しい経験だった。 

(芥川龍之介『歯車』)

 妻は又「僕」が「お父さん」であり、生きなければならないもの、死ぬことが許されないものであることを念押しする。これが物語構造の「おわり」の部分だ。

 まんなかは「僕」が経て来た全過程の回顧にある。あるいはそうであったかもしれない仮定のなかにある。いくつかの事実は形を変えて組み合わされ、まんなかとして仕立て上げられたものであろう。
 たとえば大正十五年、つまり大正五年の夏目漱石の告別式から十年後、青山斎場に迷い込む「僕」という設定も、ひとつらなりの安定した時間進行の過程として捉えるよりも、一つの仮定的プロットと見るべきやも知れない。

 たとえば丸善の二階の書棚にストリントベルグの「伝説」を見つけたのも何年何月である必要はないのかもしれない。それが青山斎場に迷い込んだ後のことでなくとも。

 書かれている事柄をいったんは事実としてではなく、そうあり得たかもしれない仮定の過程と見做した時、やはり物語構造として家庭的小説が見えてくる。それはまず「苛立たしさよりも苦しさ」として現れ、「烈しい後悔」として現れ、最後に「最も恐しい経験」に至る。

 やはりこれは坂口安吾に言わせれば家庭的小説どころか、そのまま家庭小説になってしまうのかもしれない。「自殺などというものは悔恨の手段としてはナンセンスで、三文の値打もないものだ」という意見はおっしゃる通りだ。ただし、よくよく読んでみよう。
 

誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?

(芥川龍之介『歯車』)

 小説作品としての『歯車』の「僕」は自殺など望んでいない。他殺を希望している。この「僕」の心境と、既に自殺を覚悟し、薬も手に入れていた作者の心境とはぴったりと重ねられないものだ。やはり『歯車』はそうであったかもしれない仮定を描いた仮定的小説と言ってよいだろう。



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