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「ふーん」の近代文学⑱ 谷崎潤一郎なんか誰も読まない?

 先に余談。三島由紀夫は谷崎潤一郎の『刺青』に関して何度か書いていて、『決定版 三島由紀夫全集 27巻』でも『「刺青」と「少年」のこと』『谷崎潤一郎』『谷崎潤一郎「刺青」について』と三度も『刺青』に関して言及している。

 そしてそこから読み取れることは、

・『誕生』より『刺青』の方が早く書かれており、本当の意味の処女作だと見做していること
・『刺青』の「紂王の寵妃、末喜」には気が付いていないこと

・『誕生』の皇室批判にも気が付いてないこと

・『卍』が英語学習の話だと気が付いていないこと

 ……などである。あの三島由紀夫にしても案外細かいところは読み落としている。

 そして本題。

 三島由紀夫は森鷗外の文体を褒める。非常に明晰でどんなものでも書けると褒める。ほめ過ぎかと思った人は、実際に読んでみればよい。

「地震」KLEIST
 チリー王国の首府サンチャゴに、千六百四十七年の大地震将まさに起らんとするおり、囹圄(れいぎょ)の柱に倚りて立てる一少年あり。名をゼロニモ・ルジエラと云いて、西班牙の産なるが、今や此世に望みを絶ちて自ら縊れなんとす。

 いかがです。この裂帛の気魄は如何。いかさまクライストは大天才ですね。その第一行から、すでに天にもとどく作者の太い火柱の情熱が、私たち凡俗のものにも、あきらかに感取できるように思われます。訳者、鴎外も、ここでは大童で、その訳文、弓のつるのように、ピンと張って見事であります。そうして、訳文の末に訳者としての解説を附して在りますが、曰く、「地震の一篇は尺幅の間に無限の煙波を収めたる千古の傑作なり。」
 けれども、私は、いま、他に語りたいものを持っているのです。この第十六巻一冊でも、以上のような、さまざまの傑作あり、宝石箱のようなものであって、まだ読まぬ人は、大急ぎで本屋に駈けつけ買うがよい、一度読んだ人は、二度読むがよい、二度読んだ人は、三度読むがよい、買うのがいやなら、借りるがよい、

(太宰治『女の決闘』)

れい‐ぎょ【囹圄・囹圉】 (レイゴとも)罪人を捕らえて閉じこめておく所。ろうや。ひとや。獄舎。

広辞苑

 確かに何でも書けそうな文体である。しかし文体は兎も角、「極北の史伝文学」というものを三島由紀夫がどう見ていたかというと、

 氏にとって芸術家になることとは、知識欲の迷妄からの解脱であつた。私は時代の病気をみんなその時代の作家におしつける無造作な作家論を好まないが、谷崎氏が少年期を送つた明治といふ時代は、知識が最も実用的効用をもつた時代である。鴎外はこうした時代の芸術と科学との実用的権化となり、その知的ならびに社会的優越の悲惨を抱いて、もつとも無用と信ずる作品を書きつづけた人である。
 鴎外にとつては、知性が無機質であるとき、感性も無機質である。鋭敏さが生んだ公平無私の諦念といふやうなものから、谷崎氏ほど遠い作家はない。

(「谷崎潤一郎」『決定版 三島由紀夫全集 27巻』新潮社2004年)

 ※最初の「氏」は谷崎潤一郎のこと。

 谷崎を論じる中で突然引き合いに出された鴎外に対して与えられた「もつとも無用と信ずる作品を書きつづけた人」「知性が無機質であるとき、感性も無機質」「鋭敏さが生んだ公平無私の諦念」という評価は決して罵倒ではない。そういうものとして明らかに認めているのだ。これは石川淳の大げさな賞賛と比較してあまりにも出来がいい。今思いついて書いたという感じが全くなく、言葉に隙がない。そして自分が『北條霞亭』を書かない言い訳がちゃんとできている。これだけの短い説明の中で『魅死魔亭日乗』を書かないで済むように大きな論が立っている。

 鴎外の文学について「無標性」というキーワードを用いて論じた優れた批評に鹿島茂の『ドーダの人、森鷗外』(朝日新聞出版、2016年9月)がある。これはなかなか優れた論評でかつ面白い。三島由紀夫はそれに先んじて森鴎外の文学を正式に「ふーん」とやり過ごす正しい理屈を捉えていたわけだ。

 普通は「もつとも無用と信ずる作品を書きつづけた人」「知性が無機質であるとき、感性も無機質」「鋭敏さが生んだ公平無私の諦念」は悪口である。しかし『伊沢蘭軒』『渋江抽斎』『北條霞亭』を立て続けに読むと、上手くまとめたなと感心する。「なんで何も起きない日の天気が書いてあるんだ?」という疑問に発して「もつとも無用と信ずる作品を書きつづけた人」と言い切るに至るまでには鋭敏な知性が必要となる。そして「ふーん」する勇気も必要である。

 森鴎外全集を読んだと登録した人はまだいない。

 たとえ読み流されていたとして、谷崎の方がまだ読まれている。


[余談]

 三島由紀夫は鳥貝が嫌い。

 

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