芥川龍之介の『彼』をどう読むか② そんなパズルは解かない方がいい
昔は授乳は恥ずかしいものではなく、電車の中でも行われた。いやそんなことはどうでもいいのだが、私はここに何かちぐはぐなものを感じる。
・まだ一高の生徒だった僕は
第一章にはこう書かれている。なのに第二章では、
・僕と同じ本所の第三中学校へ通っていた
と時代がさらに過去に戻る。そして「妹」に会いに行く。旧制中学の学生の年齢は落第がなければ十二歳から十七歳だ。その妹に赤ん坊がいる?
最近になって私は、もしかしたら芥川龍之介だけは夏目漱石作品を読むことができていたのではないかと疑っている。芥川龍之介の『将軍』の疑義が「生かされる筈の乃木静子が殺されたこと」にまで届いていないのは明らかだ。しかし乃木大将の写真の不自然さに気が付いていたこともまた確かなのだ。
それは芥川が一流の皮肉屋さんだからだろう。芥川は揶揄う隙をいつも探している。また『あばばばば』では月の勘定が合わないという細工を見せた。
これが独自の思い付きであり、漱石作品の影響ではないと断定はできない。むしろ芥川ならばパズルを見つけることも解くことも当然できたと考えられる。そもそもこんなものは誰も説けないようなパズルでもなんでもないのだ。
昨日確認したようにこの『彼』という作品の中には「ある海岸」「はるばる」「棕櫚の木」「太平洋」というパズルが仕掛けられている。芥川龍之介は小説の中にパズルが組み込まれることを知らない読み手でも書き手でもないことは明らかだ。「ちぐはぐな彼等の話」に寂しさを感じる「僕」は指折り数えることもなく、このパズルの矛盾に気が付いている。
ここには破綻したパズルがあるだけではない。やはり得体のしれない寂しさがあるのだ。妹の夫を兄さんと呼ぶことも、十五六の娘が子を持つことも、「お下駄も直しませんで」と云うことも矛盾以上に侘しい。
ロジックを見ること、パズルを解くことは誰でもできる。しかし破綻したパズルに触れながら、こんなに生々しい現実の感覚を捉えることは誰にもできる事ではない。これはまたGPT-4にはできまい。継母の娘に会いに行く。どうも「妹」ではなさそうだ。つまり実母はそもそも浮気されていたのであろう。それでも構わない。足の指先まで昂奮している。当然「妹」は「彼」に対して何の感情も持っていない。
そんな「彼」が実に侘しい。
一郎は父の子でない不安の中にいた。健三は捨て子であることに気が付かない。思わず妹の夫を兄さんと呼びながら、「彼」はあくまでも破綻したパズルの埒外に身を置く。
そんなパズルは解かなくてもいい、解かない方がいいと私も思う。
今日の所は。
違うと思うよ。
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