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2024年7月の記事一覧
いとうせいこうは『草枕』を読んでいない
知ったかぶりが嫌いだ。さも自分だけは解っていたという顔をする。そんなわけもあるまい。
たいていの人は夏目漱石作品を読めていない。捨て垢で何を見栄を張っているのかと思う。捨て垢の時点で「自分はゴミだ」と認めているようなものではないか。そこからどうして真摯な努力があり得るのか。
真摯な努力なしにどうして夏目漱石作品が理解できるというのか。
出家して出直してほしい。
話はそれからだ。
奥泉光は『それから』を読めているか① どうも怪しい
皆さん、一生懸命生きていますか?
私は必死で生きています。
そうでない人が駄目だとまでいうつもりはありませんが、私は必死で生きています。
さて、
これ「ギロチンの暗喩」なんでしょうか?
椿の花は確かに斬首のイメージなんですが、ギロチンでないといけないですかね。
むしろ首つり?
ギロチンなんですかね?
でギロチンで首を斬られた人は眼で物が見えるんでしょうか。
マ
奥泉光は『門』を読めているか① そもそも読んでさえいない。
何という本だかタイトルを忘れてしまったが、現代人が読むべき百冊みたいな企画本の監修をした柄谷行人……
違った。150冊だった。この本で柄谷は奥泉光に関して学者より学者っぽいと褒めていたような記憶がある。研究者の資質があるという趣旨だったと思う。
二人の関係性は良く解らないが、こう言われる条件には、
① よく本を読んでいると見做されること
② よく自分の本を読んでいると見做されること
奥泉光は『行人』を読めているか① どちらが主人公?
奥泉光が『こころ』を読めていない点については繰り返し述べた。では『行人』はどうかと言えば、読めてるかどうかは別として、説明として定まっていなことが分かったので、その点をメモしておく。
漱石のことは自分が一番よく知っていますみたいな態度が気恥ずかしい。しかし一郎を主人公にしてしまっては、「お使い」が見えなくなるし、手紙を読む主体がなくなる。
残念ながら奥泉光は『行人』も読めていなかった。
柴崎友香は『坑夫』を読めているか① 炭坑場?
どうして漱石作品がかくのごとく読み誤られてしまうかと言えば、それは、
① 漱石作品には「書かれていないこと」が多い
② そこに脳が勝手に情報を補う
……こういうからくりであろう。
柴崎友香はこのように書いている。しかし「自分」が連れていかれたところは炭坑場ではない。
ここで「銅山(やま)」と書かれている。「銅山」の文字は十八回出てくるが最初に「ヤマ」と読んでしまうと記憶から「銅」が
水村美苗は『三四郎』を読めているか① 美禰󠄀子の資産はいかほどか
ここなんですが、迷うところです。水村の言い分は解ります。しかし一方で例によってどうもすっきりと割り切れないところが出てくるわけです。金持ちの賺した女にはできないわけです。
それから父親が「いない」問題に関しては、いつから「いない」か解りますかね?
この美禰󠄀子の資産、実はたいした額ではなく、にも拘らず三四郎に対しては「いとも簡単に」三十円貸したってことはないですかね。
大体女性目線
砕けよや断礎一片桜かな 夏目漱石の俳句をどう読むか131
山里は割り木で割るや鏡餅
砕けよや玉と答へて鏡餅
床の間が無くなり、掛け軸が無くなり、それでも何とか鏡餅は残っているのだろうか。今では田舎の大きな家でないと床の間も掛け軸も鏡餅もなかろう。
門松なんかの縁起物、何百年と続いてきた風習が急速に無くなって行っている気がする。
漱石の句は共に鏡開きを詠んだもの。
山里は割り木で割るや鏡餅
山里では薪で鏡餅を割るのか、とそのまま理解すれば
吾庵は生まれぬ先の紙衣哉 夏目漱石の俳句をどう読むか130
吾庵は氷柱も歳を迎へけり
これもまたまたどれだけ寒いんだという句。これまでも松山にいる筈なのにやたらと寒そうな句があったが、そんなに寒いんかね。
それとも全部想像の句?
この句はそのままつららも自分も歳をとったなと解釈すればよいだろうか。
案外書くことがないので案外なことを一つ書いてみる。
この「歳を迎へけり」という文字列、漱石しか使っていない。
なんでや。
元日に生れぬ
赤木昭夫の『漱石のこころ──その哲学と文学』を読む⑤ ものすごい既視感
何となく見えてきた。
やはり多くの人は誰かのロジックに操られるようにして読んでしまい、不整合に気がつかない。
自我とは何かねと小一時間問い詰めたいようなこの文章にはどうしようもない既視感が漂っている。
赤木はどこかでこの他人の欲望を模倣するというルネ・ジラールの欲望の三角形のような話を読んだに違いない。あるいはそれをそのままパクったのだろう。実際、ルネ・ジラールについて説明されるとき
赤木昭夫の『漱石のこころ──その哲学と文学』を読む④ 働いてますけど
夏目漱石作品の特徴の一つに、
・仕事の場面があまり描かれない
ということがある。そういう前提で考えるとこういう間違いは極端な読解力不足として理解できそうでもある。
ここで彼らと呼ばれているのは何と、
・『それから』の長井代助
・『門』の安井(おそらく野中宗助の誤り)
・『彼岸過迄』の須永市蔵
・『行人』の長野一郎
この四人なのである。言うまでもなく野中宗助は役所勤めで働いており
赤木昭夫の『漱石のこころ──その哲学と文学』を読む③ そうなの?
誰にも間違いはある。
しかし複数人でチェックすることで単純なミスは少なくなる。
商業出版された本に誤字脱字は少ない。複数人でチェックするからだ。
しかし平野啓一郎の『三島由紀夫論』には文章のミスが多かった。引用間違いもあった。こういうことは珍しい。
それなのにどういうわけか夏目漱石に関する本に関して言えば、ほぼ必ずと言ってよい程間違いが見つかる。これは本当に不思議なことで例えば柄谷行
凍る戸を後ろを見する梅の花 夏目漱石の俳句をどう読むか129
梅の花不肖なれども梅の花
展先妣墓と添えられている。解説に展墓は墓参り、先妣は亡き母とある。虚子の評点は「〇」はいいとして、「ドツチカ梅ノ花ヲ一ツニシタラヨカロ」はなんとも馬鹿馬鹿しくて面白い。漱石のワザとが真面目な子規には通じない。
こういう遊びをしたかったのに遊ぶなと怒られているようだ。
いずれにせよ母なき世をいきるのは侘びしいものだ。なんやかやといって母親くらい自分を気にかけてくれ