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水村美苗は『虞美人草』を読めているか① 小野は小夜子と結婚したのか?

 作品そのものを正しく讀めていないのに「漱石は……」とやってしまうみっともなさを繰り返し指摘してきた。作品そのものを正しく讀めていないけれども俺様には漱石の云わんとしてきたものが解るんだよと言ってしまえば立派な馬鹿になれる。しかし世の中にはそうした立派な馬鹿が溢れている。

奥泉 よく年取ってからこんな失敗作を書いたよね。是だけ失敗できるってすごいですよ。

(「鼎談 二十一世紀に漱石を読む」『KAWADE夢ムック 文藝別冊 夏目漱石(増補新版)百年後に逢いましょう』2016年)

 今思い返すとたまたま立ち読みしたこの本の奥泉の一言で、私は夏目漱石作品に関する自分の読みと世間読みが完全にずれていることを知った。なかなか説明がつかないことながら、それまでは柄谷行人にしても蓮實重彦にしても江藤淳にしてもそれぞれ奇妙なことを書いていることはうすうす感じてはいたものの、まさか基本的な読みのレベルで彼らが全員間違っているなどとは考えなかった。あとで付け合わせてみると彼らが全員間違っていたのだが、突き詰めようともしなかった。そういう意味では偉大な馬鹿にも役割というものがある。

 奥泉のこの発言に対して鼎談の参加者高橋源一郎は否定も反論もしなかった。そこで私は「あれ?」と思ったわけである。奥泉光と高橋源一郎が『こころ』を読めていないとしたら、他の人達もかなり読めていないんじゃないかと。

 そこからあれこれあり今に至る。

高橋 漱石の漢詩には、謎がないよね。百パーセントクリアに見える。

(「鼎談 二十一世紀に漱石を読む」)

 そんなことはない。もし読めているなら苛烈な天皇批判が見えていた筈だ。
 漢詩にはどうにも解釈の出来ないものがある。これは後でやろう。

 今日は的を小さく絞り、それでもこの人くらいは漱石作品を読めていたんじゃないかと信じたい人の一人、水村美苗は『虞美人草』を読めているか、これだけをやっつけたい。

英文学者は改悛し、前からの約束通り漢学の先生の娘をもらいます。

(「講演 漱石と日本語と日本近代文学と日本」水村美苗『KAWADE夢ムック 文藝別冊 夏目漱石(増補新版)百年後に逢いましょう』2016年)

 えらく大そうな題目で講演したものである。どれだけの覚悟があればこんな題目が選べるものであろうか。

 そして言っていることは正しいだろうか。

「まだ妻君じゃない。ないが早晩妻君になる人だ。五年前からの約束だそうだ」

(夏目漱石『虞美人草』)

 あくまで予定ですよね。小野が細君になる予定の小夜子を紹介して藤尾をふる。「もらう」までは書かれていない。

『虞美人草』では、まずは、老いた漢学の先生と、若い英文学者が対比されて出てくる。

(「講演 漱石と日本語と日本近代文学と日本」水村美苗)

 小野さんは文学者である。藤尾に英語を教えている。しかし英文学者とは書かれていない。

小野さんは文字に堪能なる文学者である。

(夏目漱石『虞美人草』)

 これが英文学者の形容かどうかは議論の余地があるところだ。

小野さんは詩人である。

(夏目漱石『虞美人草』)

 これは小野さんの性質の説明ではあろう。でははたして英詩人か漢詩人か。

 そして「漢学者」についてはどうか?

一飯漂母を徳とすと云う故事を孤堂先生から教わった事さえある。

(夏目漱石『虞美人草』)

 井上狐堂はいかにも漢学者然としている。しかし作中では漢学者とは明記されていない。

 京都では孤堂先生の世話になった。先生から絣の着物をこしらえて貰った。年に二十円の月謝も出して貰った。書物も時々教わった。祇園の桜をぐるぐる周る事を知った。知恩院の勅額を見上げて高いものだと悟った。御飯も一人前は食うようになった。水底の藻は土を離れてようやく浮かび出す。
 東京は目の眩む所である。元禄の昔に百年の寿を保ったものは、明治の代に三日住んだものよりも短命である。余所では人が蹠であるいている。東京では爪先であるく。逆立ちをする。横に行く。気の早いものは飛んで来る。小野さんは東京できりきりと回った。
 きりきりと回った後で、眼を開けて見ると世界が変っている。眼を擦っても変っている。変だと考えるのは悪わるく変った時である。小野さんは考えずに進んで行く。友達は秀才だと云う。教授は有望だと云う。下宿では小野さん小野さんと云う。小野さんは考えずに進んで行く。進んで行ったら陛下から銀時計を賜った。浮かび出した藻もは水面で白い花をもつ。根のない事には気がつかぬ。

(夏目漱石『虞美人草』)

 まさかこの書物がドストエフスキーでもあるまいと常識的には考えられる。しかし漢籍とは書かれていない。井上狐堂は書道の先生で漢籍も嗜むという可能性がないではない。

 何よりもはっきりしているのは、如何にも解らないように曖昧に書いているということである。

 素直に読めば一読目は何がどうなっているのかがさっぱりわからない話、それが『虞美人草』の著しい特徴である筈だ。そこをさも「自分にははっきり分かりますよ」的な態度で本来曖昧なところを明確にしてしまって読んでいいものであろうか。

 例えば小野は文学士で銀時計、教授は有望と言われながら詩人という文学好みの性質を有しており、当初は藤尾の財産に惹かれていた。詩人は金が儲からないので財産がほしかったのだ。仮に井上狐堂が漢学者でその娘小夜子を妻としたとして、どうやって生活するのか。そこは書かれていませんね。この書かれていないところで小野も罰せられているような感じというものが結びの味わいなわけです。

 ところが水村美苗は、

「此処では喜劇ばかりが流行る」
 これが、英文学は漢文学より道義的に劣っているという主張以外に何でしょう。

(「講演 漱石と日本語と日本近代文学と日本」水村美苗)

 こう言い切ります。以外には小野さんの行く末があるわけですよ。そこが見えていませんね。しかしわかります。講演ですからテーマを決めて解りやすく図式化する必要があって、最初から「老いた漢学の先生と、若い英文学者が対比され」と図式化したわけです。自分で図式化しておいて、水村美苗は、

 この小説は日本の西洋化=近代化を批判するために書かれた極めて図式的な小説です。漱石には、というよりも、『虞美人草』という作品には失礼ですが、筋だけを追えば、我々日本人は、昔からそうしてきたように、もし男であれば、女などは真剣に相手にせず高い志を抱き、女であれば、藤尾のような勝手な真似をせず、お父さんやお兄さんから言われた通りに大人しく結婚しなさい、とそう言っている。

(「講演 漱石と日本語と日本近代文学と日本」水村美苗)

 こういう読み方をしたかったわけですね。ところがこの読みだと義理を守り、小夜子と結婚したのはよいが「詩人」でしかない小野の扱いがどこかへ消えてしまっています。小野の生活は高い志を捨てることでしか成り立ちませんよね。

 解りますかね。

 漱石作品は殆ど全て何かわかりやすい図式に当て嵌めて矢印に捉えようとするとどうも何か「余る」感じがしてしまうものなのです。それをみんな「うまい話に収めよう」として破綻しています。水村美苗は頭がいいので曖昧なものを明確にしてしまい、日本の西洋化=近代化を批判を読み取りました。
 しかし近代化は御一新の結果ですよ。

 天皇批判は見えていない?

 近代化批判というのは簡単ですよね。しかし漱石の天皇に関するスタンスを調べて行くと簡単な図式にはなりません。どうもぼやけてきます。そのリスクを鋭く嗅ぎ取り水村美苗は「日本の西洋化=近代化を批判」といったのではないでしょうか。

 なんとか格好をつけていますがこれで『虞美人草』を読んだということにはならないでしょう。この人もやり直しが必要です。

[余談]

 この本はいとうせいこう責任編集となっている。責任編集の責任って何なんだろうね?

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