赤木昭夫の『漱石のこころ──その哲学と文学』を読む⑤ ものすごい既視感
何となく見えてきた。
やはり多くの人は誰かのロジックに操られるようにして読んでしまい、不整合に気がつかない。
自我とは何かねと小一時間問い詰めたいようなこの文章にはどうしようもない既視感が漂っている。
赤木はどこかでこの他人の欲望を模倣するというルネ・ジラールの欲望の三角形のような話を読んだに違いない。あるいはそれをそのままパクったのだろう。実際、ルネ・ジラールについて説明されるとき夏目漱石の『こころ』が引き合いに出されるのはもうお約束のようになっていて、この誤解を解くのはかなり困難であると感じる。
まさに猫の杓子もという感じである。勿論このnoteを読んでいる人も例外では無かろう。いちいちやっつけはしないけれども、やはりnoteにこのいとうせいこうのような馬鹿な受け売りを書いている人もきっと何人もいるんだろう。
しかしね、
何度も書くけれど逆だからね。仮に模倣があったとすればKが先生のお嬢さんへの愛を模倣したと考えざるを得ない。何故ならKを下宿に招く前から先生は御嬢さんに対して信仰に近い愛を持っていたのだから。
それからKに対する嫉妬は結婚後も消えていないので、「嫉妬から出し抜いた」と読むのも間違い。しかも先生は嫉妬心は愛情の裏面だからと嫉妬心そのものに関しては反省もしていない。
もうこの話はいいよね。解らない人には永遠に解らないし。
問題はこの人の書き方だ。
やはりこの人が「自我」をどんなものだと考えているのかが気になる。
この文章では自我の働きが明示されていないからだ。「限らない」ということは自我の働きにより相手を好きになることもかなりあるという意味か。
ダメな文章というものも相当に読んできたつもりだが、ここまで駄目だと本当にへこたれそうになる。暑いんだから勘弁してと言いたくもなる。
ええと、この時自我を抑えている意識の主体は誰なの?
仮にジラールの理屈で言えば「欲望の模倣」は無意識的につられてやるものだから、模倣するのは自我の中の無意識の領域だよね。しかし抑えるというのは意識的な振る舞いに思える。そいつは誰なの?
頭が二つあるの?
腸内細菌が抑えるの?
これ自分で書いててなんか変だなとか思わなかったのかね?
自我を抑えてすきになるって……。
それから「愛人」なの?
ちゃんと「同棲者」というあたりは抑制できていて、「愛人」なんて書いちゃうわけ? 「好きな人」でいいんと違う?
で宗助と安井の区別はここでは出来ていたわけだ。
なんかもう無茶苦茶だね。
[余談]
おかしいと思ったらNHK職員じやないか。
ダメだこりゃ。
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