ファッション・アベンジャーズ
取締役を退任 → 地球を守るために起業
2021年4月、100人以上が揃う朝礼の場で私は言いました。
「アベンジャーズになります」
その翌月、5月26日に開かれた株主総会にて、株式会社TOKYO BASE(一部部上場)の取締役を退任。5年4ヶ月間勤めていた会社への感謝を胸に、新たな道へと舵を切りました。
TOKYO BASEは、本当に素晴らしい会社だと思います。私自身、最高の仲間に囲まれ、多くの経験を積むことができました。取締役というポストで人並み以上の待遇を受け、不自由のない暮らしを約束されていましたし、不況と言われるアパレル業界で、グローバルに力を入れている同社が今後も伸び続けるということも確信していました。
ですが、そんな現状を捨ててまでやりたいこと、いや、やるべきことに出会ってしまいました。それはファッション産業のアップデートです。アパレルは、いまや上位二番目の”環境汚染産業“と言われている現状があります。需要と供給のバランスか崩れ、大量に必要とされないファッション商材は作られ、廃棄され、かつ石油から作られた大量の物は二酸化炭素を出し、地球にとって取り返しのつかない程の影響を出してしまいました。更には小売企業が利益を優先するがあまり、川上である繊維の原材料を生産する農家、縫製や生産をする工場が苦しんでいるというケースも珍しくありません(私もこれまでそこに加担してきたのかもしれません)。
だからこそ、地球にも人にもやさしいネイチャーマテリアルに着目し、第一次産業である農業からサプライチェーンを改革する必要があります。その結果、人が洋服やコスメを購入する際に、「未来に誇れる選択」をできるようになり従事している私達自身や、私達の商品をご購入いただいたお客様の自己実現に繋がります。
また、農家やファクトリー、関わっている全員がしあわせになれば、必然的に産業としての持続可能性が高まります。環境負荷の高い素材に代わりネイチャーマテリアルが普及し、私たちの住む地球の未来が少しだけ明るくなるはずです。
これが私の計画した、地球を守る(アベンジャーズ)計画のコアです。それを実現するために、「NEXT NEW WORLD」という会社を立ち上げました。これからは人生をかけて、人類の課題解決にファッション、コスメを通じて取り組んでいくつもりです。もちろん、私たちだけではなく、成し遂げるためにはみなさんの力が必要です。
私が何者なのか、本当に信用に足るべき人物なのか、知らない人の方が多いだろうと思います。だから僭越ではありますが、起業にいたるまでどんな経歴で、どのように生きてきたのか、振り返り語ってみようと思います。
長くなりますが、ぜひ最後まで読んでいただけると嬉しいです。
Profile
高嶋 耕太郎(Kotaro Takashima)
1982年生まれ。2010年に「Amazon Japan」入社。2014年にメンズアパレル部門の部長に就任。その翌年からは、販売コンサルティング部長を務める。2016年に同社を退社し、「TOKYOBASE(一部上場会社)」に入社。商品・EC部長を務めた後、約半年後で取締役・事業本部長に就任する。2021年5月に同社を退社し、7月に「NEXT NEW WORLD」を立ち上げる。
18歳〜24歳|キャリアスタート編
私は高校卒業後に地元の香川県を飛び出し、群馬県の高崎にある大学へ進学しました。当時から、洋服を買うために東京まで足繁く買い物へ出かけていました。時にはストリート雑誌にスナップをされたこともあり、そういった縁から知り合いも増え、ファッションへの関心がさらに強まっていきました。
今思えば、雑誌に出てまわりの友人たちから「すごいね」とちやほやされたことも大きなモチベーションだったのかもしれません。だからこそ、ファッションに携わる仕事に就きたいと考え、有名なスタイリストさんに連絡してアポを取り、積極的に会いに行っていました。そうこうしているうちに良い縁があり、アシスタントに就けることになりました。
そのアシスタント業と並行して、セレクトショップ「フリークスストア 高崎店」でアルバイトをしていました。当時は古着の仕入れも行っていて、珍しいヴィンテージも揃っていたのでかなり勉強になりました。とにかく、その時は勢いだけで仕事をしていました、わからない事があればすぐ聞く、試す、失敗する、の繰り返し、責任感だけは人一倍強く、数字に対してはかなり貪欲に達成させる意欲はあり、行動に移していたと記憶しています。しばらく働くうちに事業部長の目に留まり、本社のある原宿店へ異動することになりました。
昼間は洋服屋でアルバイトし、夜から朝方にかけてスタイリストのアシスタントをするという生活。それを半年くらい続けていたら、ある時アルバイトにも関わらず、「バイヤーをやらないか」とお誘いを受けました。さすがにスタイリストへの道と並行することはできなかったので悩みましたが、洋服だけではなく、売り上げなどの数字を見てプランを作成することも好きだったので、スタイリストのアシスタントをやめて、バイヤー業に挑戦することにしました。
そうは言っても、当時のお店は30代の厳しい先輩方を中心に回っていたので、大学を卒業した23〜24歳くらいの私がバイイングした商品をどうしたら売ってくれるか、とても心配でした。だからこそ、とにかくコミュニケーションを取るために先輩方と飲みに行きまくりました。仕事にも一生懸命取り組み、信用を勝ち取る努力を欠かしませんでした。
毎日朝まで飲みに行って、でも遅刻はできないので、オフィスの入り口前で段ボールを布団にして就寝。経理の方に起こしてもらって、そこから仕事をするというようなハードな生活を送っていました。
その結果、次第に信頼されるようになり、みんなが協力してくれるようになりました。当時の店長の中でボス的な存在だった方にも認めてもらい、数字もだんだんと伸びていきました。そして、社員へと誘われることになりました。
ところが、私には社員として入社する前にどうしてもやりたいことがありました。それはピースボートで世界一周旅行をすることです。社長に直談判をし、「必ず経験値を増やし、会社に貢献してみせます」と言い切り、三ヶ月の休みをいただき船旅へ出かけることになりました。その際に、東南アジア、南アフリカや南アメリカ諸国を訪れ全く新しい文化に触れることができたのは、本当に良い経験でした。そこから、今では世界30か国以上行ったことがある位、海外旅行が大好きになりました。
帰国後、会社で「世界一周はどうだった?」と聞かれて、赤く染めた髪、真っ黒に日焼けした私は「やっぱり、人とは愛ですね」と子供のような言葉が出てきました。そんな自分を先輩方々誰も嫌な顔をせずに、こころよく受け入れてくれました。このことは当時の社長であり、現在は会社を退任されているデイトナ・インターナショナルの創業者、鹿島研さんも覚えているとおっしゃっていました。
25〜28歳|デイトナ・インターナショナル編
社員になってから約半年後、25歳くらいの頃にバイヤー業と並行してMD(マーチャンダイジング)も任せてもらうことになりました。それはつまり、バイイングしたブランドだけではなく、自社のオリジナル製品の企画・販売計画などを担うということです。世界一周から帰ってきた若造は、会社の売り上げの約8割の商品を任されることになりました。
今考えみても、どこの馬の骨か分からない私に大きな責任を与えてくれた会社の器量はすごいと思います。当時のファッション業界で、上昇志向が強い若者に、結果さえ出せば大役を任せてくれる会社というのは珍しかったはずです。そういう環境だからこそ、私がその後入社することになる株式会社TOKYO BASEの谷正人社長のような、スタープレーヤーが生まれたのでしょう(もともとはデイトナ・インターナショナルの社内起業からスタートしました)。
すべてはデイトナ・インターナショナルの創業者である鹿島さんの器の大きさだと思います。鹿島さんは2021年の4月に電撃退任されましたが、その時に会いに行って1時間くらい二人で語り合いました。今の自分があるのは、挑戦できる環境を与えてくれた会社のおかげなので、私からすれば鹿島さんには恩しかありません。ところが、私がそう述べると、
「それは違う。お前がした決断の一つひとつが今の実績に繋がっただけだ」
とおっしゃっていました。
私が入社した頃はちょうどリーマン・ショックの影響があり、売り上げが落ち込んでいた時代でした。現金がまわらずに、当時の事業部長と取引先に伺い、支払いや納品時期をずらしてもらうために土下座をしたこともありました。その時は私もまだ経営のことを分かっていませんでした、なので、なんで自分らだけがこんな辛い事をやってるんだと思っていましたが、今思えば鹿島さんはきっともっと大変な苦労をされてきて、銀行回って資金繰りや、その時の自分がやっている事以上に大変だったんじゃないかなと、今やっとわかる気がします。
今やデイトナ・インターナショナルは、年間で数百億円を売り上げる大企業。鹿島さんは経営者としては50代で退任されて、次なる夢へ向かっていくわけですが、ひとつの成功の形として大きな夢を与えてくれました。
人にはそれぞれ飛躍する時期があります。お金を儲けるという成功に限らず、新たな人と出会ったり、新たな環境へ移ったり、新たなことにチャレンジしていると、大きく飛べるタイミングが訪れると思っています。鹿島さんはまさにそんな人生を体現されている方でした。
28〜33歳|Amazon Japan編
MDとしての実績がついてくると、段々と自信が増し、もっと大きな仕事をしたいという気持ちが芽生えてきました。実際にほかのセレクトショップを鑑みても、27〜28歳で会社の約80%の売り上げを担っているMDなんて当時はいませんでした。少々天狗になっていた部分もあるかもしれませんが、とにかく経験を積みたいという上昇志向が増していきました。
ちょうどその頃は、ファッション業界で“ITバブル”が起きていた時期。どの会社もECへの移行が進み、それに伴う利益も飛躍的に伸びていました。そういった背景もあり、今後はさらにECの時代が来るというのを肌で感じていました。そんな矢先に知り合いから、Amazon Japanがファッション部門を立ち上げるという話を聞き、受けてみることにしました。
外資、上場企業、ECという、まさにその時の自分の興味のベクトルの先にある企業でしたし、立ち上げに携われるということで、おもしろそうだなと期待していました。ところが、面接の日に大失敗をしてしまい……。なんと面接日程を忘れていて、3時間以上遅刻してしまったんです。
その日は別件で商談をしていたのですが、知らない番号から何度も着信があり、電話に出たらAmazon japanの人事担当の方。「副社長が面接をお待ちになっていますが、何時ごろ到着されますか?」という言葉に凍りつきました。面接担当は当時の副社長、カワサキ・ローレンさん。皆様ご存じのAmazonの創設者ジェフ・ベゾスさんに採用されたハーバード大学でMBAも取得されている優秀な方でした(実はわたくしもジェフさんには会ったことあります)。
商談中でどうしても抜けられなかった私は、なんとか3時間の猶予をもらい(今思えば失礼な話なのですが)、Amazon Japanへ。面接会場へ入ると、副社長が現れて、怒られると思いきや、笑顔で握手をされて「何をしてたの?」と尋ねられました。
「申し訳ありません。かくかくしかじかで」と、私が説明をしたところ、「そっか、ははは、面白いね」と笑い飛ばしてくれました。ものすごくポジションの高い人なのに、おおらかで、心が広くて余裕を感じました。
面接はかなりの難関で、4人の面接官と4時間ぶっ続けで話をして、鬼のように質問攻めにされるというもの。これは後で知ったのですが、“バーレイザー”と呼ばれる熟練の評価者がいて、わざとハードルの高い質問を行うという制度があります。その人の一番ダメな部分を見抜いて詰めていくという恐ろしい役回りで、たとえば「自分の成功パターンを教えてください」という質問の後に、「では、それを成功したところから順序を入れ替えて言ってみてください」というような難解な質問をしてきます。
結果的に私は入社することができたのですが、後に面接に関わる中でもバーレイザーという制度はおもしろいと思いました。ただ、それだけ厳選して採用を行っているのにもかかわらず、当時は100人が入社して3年後に200人辞めているという都市伝説があったほど、人の入れ替わりは激しかったです。
外資らしく、基本的に入社後は野放しスタイルなので、入ってもスキルが足りなかったり結果を残すことができなければ辞めざるを得ない。私はそれまでの経験を生かし、入社から4年後にメンズアパレル部門の部長に就任。その翌年からは、販売コンサルティング部長になることができました。
どちらかといえば、人を管理するというのではなく、採用をガンガン回して良い人材を残していくというのが企業文化なのでしょう。ECの知見もそうですが、世界的な大企業の経営手法を学ぶことができたという意味でも、大きな経験を得ることができました。入社当時は、朝までガンガン騒ぎ、寝ずに本気で仕事する、スタートアップの様な会社で、本当に面白かったです。
33〜38歳|TOKYO BASE編
Amazon Japanに所属していた頃は、独立を考えていませんでした。30歳で年収は2000万円超。年齢にしては、申し分ない金額をいただいていたと思います。アメリカでは役職が上がることを“プロモーション”と呼ぶのですが、このまま居続けて結果を出し、プロモーションをしたとしても40歳で年収約3000万円。額面上では大きな金額ですが、実際には40%以上税金も取られますし、経費を使うこともできない。大企業でもある為、会社の歯車でしかない事は容易に想像できました。
役職に就いて、将来のことが段々と見え始めた時に、もっと大きな夢を見たいと思うようになりました。だからこそ、当時マザーズへ上場したばかりだったTOKYO BASEに入り、株という資産を持ちながら、自分の行動で大きな会社の業績に対してインパクトを出し、伸ばしてみたいと強く感じました。
TOKYO BASEの谷正人社長は、じつはデイトナインターナショナル時代の私の後輩。プライベートではずっとタメ口で話すような親しい仲でしたが、改めて敬語に直し、社長にメールで直談判しました。
「私が御社に入ったら、必ず目標を達成させる自信がある。だから採用した方がいい」。
そういったかなりビッグマウスな内容だったと思います。それから谷社長との面接があり、入社が決まりました。「実績は十分、人間性もよく知っているので役員にしたいが、まわりへの示しがつかないから、まずは部長で入って欲しい」と言われ、役員ではなく、ただの商品&EC部長として入ることになりました。給与もAmazon Japanに比べて半分程度になりましたが、それでも挑戦したい気持ちの方が強かったです。
結果的には、これまでの知見を生かし、EC比率を三ヶ月で10%向上させ、営業利益をガツンと上げることに成功し、2016年の2月に入社し、5月の株主総会で取締役に就任しました。
TOKYO BASEに入ってもっとも驚かされた事は、人の管理の仕方です。Amazon Japanとは大きく異なり、中間管理職を極力減らし、最小人数でシステムを用いて、適性な管理をするというスタイル。営業(販売)に力をいれていて、結果を出したら出しただけ評価されるインセンティブ設計があり、入社2〜3年目で年収1000万円以上のプレーヤーもたくさんいました。今でもそういうアパレル企業はないので、夢があっていいですよね。人は自らやる気にならないと120%の力を出すことはできないので、マネージメントなどの部分は本当に勉強になりました。
現在|NEXT NEW WORLD編
TOKYO BASEは、EC移行が進んだことや香港・中国出店などにより、さらなる急成長を遂げ東証一部上場に鞍替えも果たしました。私個人としても、給与はAmazon Japanの頃に戻り、ストックオプションを貯めていったことで、資産が増えていきました。ただそれでも、やっぱり、創業者とは天地の差。ちょうどファッション業界に長く携わる中で、次第に自分のやりたいこと、やらなければいけないことが見えてきたこともあり、夢を実現するにはより多くの資金が必要だと感じ始めて頃でしたので、尚更痛感させられました。
じつをいえば、TOKYO BASE内で子会社を立ち上げて、上場するという考えもありました。それに関しては、会社としても前向きだったのですが、親会社の資本が入ると自分自身がいくらお金を払ったところで、大して株のパーテセンテージを取得することができないという現実がありました。
たとえば新たに作った会社の市場価値が10億円だとして、自分で1億円を払ったとしても10%しか株数を持つことができません。金銭的な面もありますが、性格上ハイリスク&ハイリターンが好きな私は、思い切って独立し自分で会社を立ち上げることを決意しました。そして、2021年の5月にTOKYO BASEの取締役を退任し、7月に株式会社NEXT NEW WORLDを創業しました。
これまでに私がやってきたファッションビジネスは、極力原価を下げて、自分たちの利益を拡大するという、利己的なものでした。少しでもミスがあったり、売れていないものは返品する。たしかに利益率は上がり、残在庫率は下がりますが、次第にそのやり方に疑問を感じるようになりました。
それをもっとも強く感じたのでは、日本の工場と仕事をした時のことです。まだまだ工場には悪しき資本主義の文化が根付いていて、受け身的にオーダーを取るやり方をしていることを知りました。私たち発注側はとにかく原価を下げたい。工場側からすれば利益率が低くても、経営を守るために受けなければいけない。仕事を安く受けてしまったために、スタッフが低賃金・重労働にさらされるという悪循環。つまりは発注側の利益を拡大させるために、だれかが苦しまなければいけないということです。今この瞬間の売り上げだけを切り取れば、仕事があるだけ良いのかもしれない。ですが、こんなモデルでは将来的に必ず長続きはしません(ですが、これも正しい経営ですし、当たり前と言えば当たり前なので、その方針をやられる方々を否定するつもりはありません)。
これは日本だけではなく世界でも起こっている問題です。生産性と利益を高めるために、悪しき産業モデルを発展途上国に押しつけ続ける。そういった古い産業モデルに終止符を打つために、私たちは第一次産業(農業)の原料から、お客様に渡るまでの全ての工程を自分達で管理をするサプライチェーン改革を起こしたいと思っています。そうする事によって、一番大きな利益額がでる小売りのお金を、生産者の農業の従事者と分け合う事ができ、持続可能な産業となります。
なおかつ、石油由来の素材ではなく、地球にもやさしいネイチャーマテリアルを普及させることで、この星も含めて全員にメリットがあるような新たな産業モデルを作りたい。人が生きている以上、環境破壊をゼロにすることはできません。たとえば、二酸化炭素の排出に神経質になり過ぎて、ストレスを抱えてしまうのも違うと思います。
ですが、少なくとも自分たちの利益を中心に考えた行動で、誰かが困ってしまうようなことは極力なくしていきたいと強く感じています。だからこそ、一人ひとりが考えて「未来に誇れる選択」をすることが大事だと思います。この製品は、誰がどういう考えで、どういう風に作られているのか、購入することにどんな意味があるのかを知り、責任のある選択をする。
そんな“ネクストニューワールド”を目指してみようと思います。どうか私たちにみなさんの力を貸してください。
https://www.facebook.com/groups/485483932714915
番外編|最大の挫折
私の武器は、折れない強さだと思っています。
その原体験は高校生の頃。私はバスケットボールが得意で、個人的も強い自信を持っていました。香川県でナンバー2の学校から推薦をもらったのですが、一番にならないと意味がないと思い、その推薦を蹴り、県内一位の学校へ進学しました。
ところが、その学校にはバスケ推薦で入学した生徒が何人かいて、努力だけでは超えられない壁がありました。なぜかといえば、推薦の子たちが活躍しないと、推薦をした先生のせいになってしまうからです。私はそれを知らずに自信と気合いだけでレギュラー獲得に挑みましたが、結果は6番目。正選手になることはできませんでした。
一番自信のあるものをポキッと折られることほど辛いことはありません。その経験が礎となり、人にどう言われようが折れない、心の強さを得ることができました。
またの機会に色々と書かせていただくので、ぜひとも楽しみに待っていてください! 失敗ばかりですし、死にそうになった事も何度もございます(笑)。なので、そんな話も入れていければと思っております!
ではまた!!
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?