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世阿弥 風姿花伝を考える ~別紙口伝その2~

何が書いてあるか

先日、風姿花伝を読んで感動した。ちゃんと読み込もう。風姿花伝の現代語訳とともに感想やビジネスなどへの活かし方を好き勝手に、少しずつ書いていく。

このNoteは自分自身が勉強したいと思って始めた、どうせならオープンな場所に書き残しておこうという公開型の日報みたいなものです。

僕はちゃんと古典の勉強や研究をしたこともなければ、この道の専門家でも全くないので、いろいろと細かい間違いなどはご容赦頂きたく。。

風姿花伝とは

世阿弥が著した能の理論書。父である観阿弥の口述した能楽論を中心に、世阿弥自身の思想を展開したものと言われている。能の修業・演出が中心ではあるが、人生訓など幅広い内容を含んでいる。

年来稽古条々・物学ものまね条々・問答条々・神儀・奥義・花修・別紙口伝の七編で構成されている。

有名な「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」という一文にもある通り、『花』が重要なコンセプトとなっている。

「初心忘れるべからず」もこの風姿花伝からきている。ちなみに初心とは何かを始めたときの気持ちだと多くの人が誤解している。初心が何を指すかはまた別途。

今回の箇所

花伝第七 別紙口伝(べっしのくでん)より冒頭部分の続き


参考図書

すらすら読める風姿花伝 (講談社+α文庫) | 林 望 |本 | 通販 | Amazon


本編ここからスタート

前回からの続き)

その上、人の好みも色々にして、音曲・ふるまひ・物まね、所々に変はりて、とりどりなれば、いづれの風体をも残しては叶ふまじきなり。

(現代訳)そのうえ、見る人の好みも様々で、謡、しぐさ、物まねのいずれも、好みは所によって変わるため、どの芸風も技術も残りなく習得せねばならない。

しかれば物数を窮め尽くしたらん̪為手(して)は、初春の梅より秋の菊の花の咲き果つるまで、一年中の花の種を持ちたらんがごとし。いづれの花なりとも、人の望み、時によりて取り出だすべし。

したがって、どの方面も十分に芸を身に着けたシテは、初春の梅から秋の菊まで、一年中の花の種をすべて持っているようなものである。どんな花でも、観客の望みに応じて、タイミングよく取り出せるのである。

物数を窮めずは、時によりて、花を失ふことあるべし。

反対に、芸の習得が不十分であるなら、時によって花を見せられないこともある。

たとへば春の花のころ過ぎて、夏草の花を賞翫(しょうがん)せんずる時分に、春の花の風体ばかりを得たらん為手が、夏草の花はなくて、過ぎし春の花をまた待ちて出でたらんは、時の花に合ふべしや。これにて知るべし。

たとえば、春の花のころをすぎて夏草の花を愛でる時分に、春の花しか持ち合わせていないからといって、もう過ぎてしまった春の花を持ち出してくるようなものだ。そんなものは季節の花に相応しいだろうか。このように「花」というものを理解することができるだろう。


感想などまとめ

いやもうおっしゃる通りです世阿弥先生。
春の花しか持ってないときに、たまたま観客が春の花を望んでいて、うまくいくことはあってもマグレである。秋の花を見たい観客に披露すれば白けるのは目に見えている。

これはあくまで例えであって、大事なことは芸にしても仕事にしても、必要最小限の習得で通用するわけがないよ、ということだと思う。通用したとしても、それは偶然であると心得よ、と。

ここで季節ごとに咲く花を例に挙げているのが天才的だと思っていて。季節に咲く花だから1年前の感動を皆覚えてるんですよね。でもちょっと忘れかけている。まだ写真もなかった時代、絵師も都にしかいなかった? 朧げな記憶で去年の感動を思い出しつつ、それを見たいという観客にタイミングよく芸を見せることで最大の感動を生み出す。

これは仕事でも同じで、顧客が全く予想してない明後日の方向ではなくて、半歩先くらいの、ユーザーがちょっと期待している体験を実現していくことなんだと思います。意外性もたまには大事だが、王道が花。そのように勝手に解釈してみました。

別紙口伝、まだまだ続きます。次は老人の所作を演じることについての極意を。

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