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歩くことについて

今日はすこぶる執筆の調子が悪かった。
…ので、とりあえず何か書いて調子を戻したいと思い、いま思いついたことをそのまま文章にしている。

今日、関東は一日中雨だった。
ほぼ毎日カフェに出勤する僕も、さすがに今日は雨の中移動する気持ちにならず、家で過ごすことにした。

僕は家で作業することがすこぶる苦手であり、今日の不調は案の定、という感じである。


なぜ家での作業が苦手なのか、それはコロナ禍で家から出られなかったあの時期に、嫌というほど考えさせられた。

誘惑が多い、メリハリがつかない、周囲の目がない、といった事柄がすぐに思い浮かんだが、これらは学生時代にも少なからず感じていた事柄だったため、あまり新しい発見をした気持ちにはなれなかった。


だが、コロナ禍でひとつ、明確に新しい発見だと感じた事柄があった。
それは、歩くことの重要性である。


コロナ禍の間、僕はほとんど外を歩かなかった。朝から晩まで、ベッドの横の作業スペースでモニターの前に座り続けていた。今思えば、この時期の精神状態は非常に良くないものだった。

精神状態だけではない。身体にも相当負担をかけてしまった数年間だったと思う。なにせ、食事やトイレ、風呂以外で立ち上がることがほとんどなかったのだ。頭がボーっとしてくるし、頭痛に悩まされる日も多かった。おまけに、夜はなかなか寝付けない。

今は客観的に当時の状態を分析できているが、当時は自分の身体の変化に気づけなかった。これに気づいたのは自粛ムードが収まってきて、カフェ通いを再開したころのことだ。


カフェに通い始めると、とても清々しい気分で過ごせるようになった。一日の充実感が違う。身体的にも、コンディションが良くなっているという実感があった。

一日中、座って作業をしているのは変わらないのに、なぜこんなにも調子が良くなったのか。そう考えたときに初めて、歩くことが身体を整えてくれていたという事実を「体感」した。

これまでも、歩くことが健康に良いことを知識としては知っていたが、ここで「体感した」という事実が、僕に歩くことの重要性を心の芯から経験させたのだった。


僕はコロナ禍に入るまで、特段歩くことが好きというわけではなかった。歩くことは単なる移動手段であり、さらに言えば、時間がもったいないな、という感覚も非常に強かった。

今では片道30分、往復で1時間ほど徒歩で移動するのが習慣になっている。

歩くことに対する意識が変わると同時に、歩き方も変わってきた。それまでは最短で目的地にたどり着く道に限定して歩いていたが、今では自分のお気に入りの道を探すようになった。

地面の凹凸、人通り、物音、空気、香り…。
これらは、最短ルートを求めて歩いていた時には、まったく感じたことのない事柄だった。


そういえば、最近気づいたことを思い出した。
音楽を集中して聴きたいとき、人通りの多い街の中では、音楽を集中して聴けていないということである。

人通りのない道で聴くと心に触れるフレーズが、街中で聞いてもまったく心に響かないのだ。

この経験を通じて僕は、自分でも気づかないうちに、人込みで通行人を避けるために脳のリソースを使っていることに気づいた。


ただ、「街中でこそ聴きたくなる音楽がある」ことも事実だ。ゆえに、脳のリソースをフルに使って音楽に集中することが、必ずしも自分にとって理想であるとは言い切れない。

脳の30%くらいを音楽に集中して聴くのが心地よい音楽、というものがあるのかもしれない。

このような微細な身体の変化に気づけるようになったのも、コロナ禍の劣悪な身体の状態を経験したことに由来するのかもしれない。


…さて、そんなことを書いていたら、いつの間にか雨が上がったようだ。
今日はこれ以上ねばっても良いことはなさそうな気がするので、雨上がりのあの匂いを楽しみながら夜散歩をして、早めに寝床に入ることにしよう。


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