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知識の支援システムはどこにあるべきか

あらゆる業界の当たり前な知能を自由に使えるとき

もし、あらゆる業界の当たり前の知識を手段として使えたら。
達成する目的だけを見つめることができるのだろうか。

最近、こんな夢物語ばかりを考えることがある。

なんで夢物語を考えているのか

ベンチャーでは、足りない部分を走りながらメンバーで学んで作っていくことは、よくあることだ。

実際に、私自身もAIのエンジニアリング以外にも、アプリケーション、web API 、DB構築、監視システムまで、走りながらインプットを行い、自分で作ったものの必要なものはより良いものに置き換え、転びながらシステム化を行ってきた。そしていま、必要なものはまだまだ山ほどあるが、なんとなくバラックとして軋みを上げながらも動いてくれている。

そんな中、ふと息をつき振り返ってみたら、転んだものは、大概、その分野では当たり前の知識だったり、ユースケースの中で知っていれば問題ないことだったりしていたことによるのだったことに気づく。

これが初めてではない。

がむしゃらにブルドーザーのように仕事を進めて、行き着いた先で気づくのだ、乗り上げた石は、バランスを崩した沼地は、その分野の人であれば、見つけて簡単にパッチを当てられたものだと。ただの小石と水溜り程度のものだと。

しかし、自身の人生は有限で、新しいものは常に増え続け、その中で当たり前のことすら知らずに違う分野の知識を使わざる得ないことになる。ただの小さな小石と水溜りを避けることすらままならない。

苦しいし、視野が狭くなるし、これがずっと続くのかと思うと、絶望を感じることもある。だから、ふと思うのだ。今本当に頑張るべきことで頑張れているか、と。目的を達成するために必要なことに本当に自分の微々たる能力を使い切れているのかと。

そこで、冒頭に戻るわけである。

もし、あらゆる業界の当たり前の知識を手段として使えたら。
達成する目的だけを見つめることができるのだろうか。

その時、私は目的だけを見つめ続けることができるのだろうか。

今回は、当たり前の知識を支援する拡張性人工知能を通してこの課題を考えてみたいと思う。

当たり前の知識はどれぐらいの総量になるか

仮に、あらゆる業界の当たり前と呼ばれる知識を自由に使えるとした時、その知識はいったいどれだけの量になるだろうか。

そもそも当たり前と呼ばれる範囲は、どの範囲だろうか。

20220206_知識ドメイン.001

色々な方法があると思うが、今回は 

出現頻度[左 / 右] × 知識の複合性[上 / 下]

の2軸で整理したいと思う。

つまり当たり前の知識とは、知識単体で理解することができ、出現頻度が高いものとして定義したい。

出現頻度を定量的に定義するとすると、本を基準に考えるとわかりやすい。

例えば、新しい分野について学ぶとき、10冊の専門書を読むようにしているとすると、10冊の索引に対して記載されている用語 / 定義から分布を作成すれば、言葉としての出現頻度を評価することができる。

その上で、知識の複合性を評価すると、ある複合的な単語が定義されている章の中で、説明として使用されている用語は、下層の知識を前提としているということのため、複合度が高いということになる。

これによって、索引の単語がどこにどのようにマップするのか、分類することができる。

事例 | xxxを例にした知識マップの作成
→ Now On Progress

知識が目の前に壁として立ちはだかってはいけない

仮に、あらゆる業界の当たり前と呼ばれる知識を自由に使えるとした時、その知識は、どこに・どのような形で存在するのが良いだろうか。

例えば、通常私たちが学習を行う本やWebなどの形式知は、私たちの目の前に物質的に存在する。それは、積み上げられた本であったり、何万件と存在する検索結果だったりする。
ユニークな知識とすることができれば、何十分の一にも圧縮されるだろうが、それでも膨大な量になってしまうだろう。

つまり、当たり前の知識は、当たり前の如く見えない形で、思考の中に混じり込む形で、支援される必要があるということである。

これは、現在のいくつかのアプリケーションにおいて、汎用的な利用が進められてきている。代表的なものとしては、大規模言語モデルを元にした補足モデルなどが挙げられる。いくつか例を下記に挙げる。

コーディングを支援するGitHub Copilot

科学論文を大規模に学習させた meta社のgalactica

AIによるアイディア生成の支援 notion AI

知識支援システムが人形奏者になってはいけない

ただ、これらの支援システムが出てきたことで、支援システムとしての課題がいくつか出てきた。幅広い課題があるが、知識の利用という観点で考えると以下の三つが大きな課題になると考えている。

  1. 知識をどのように支援システムに学ばせるのか

  2. 支援システムによって引き渡された知識をどのように正しいと判断するか

  3. どこまで知識支援システムに依存した意思決定を行なっても良いか

ここでは、"当たり前の知識を自由に使えた場合に”をテーマに記述しているため、3.の知識支援システムに依存した意思決定を行なった場合について少し深掘りしたい。

そもそも当たり前の知識に基づいて意思決定を行う場合に、どこまで知識支援システムに依存するのが望ましいかという課題である。これは、同時にどこまでが当たり前の知識であり、どれぐらいの確度で成り立つことが当たり前と評価されるかという課題でもある。

私たちは、これまで積み上げてきた自身の知識を元に意思決定している。しかし、そもそも積み上げてきた知識そのものも外部から取得したものであり、どの程度確からしいかは検討しないまま、教育として受け入れているものである。

学習と知識の積み上げについては、以下の図がわかりやすいと思っている。

今回の検討としては、全ての知識を当たり前に使える場合、つまり、人類の知の限界をシステムとして利用できる場合に、ヒトはそれを理解しながら利用できるのかということである。このとき、私たちは、何を持って意思決定をしていると言えるのだろうか。

私たちは、自分自身の内部にある知識が自己の経験によって蓄積されていない場合に、何を持って納得感という幻想を感じ、それを、活用するのだろうか。自己の知識より膨大な知識によって正しい選択を用意されてしまった時に、それは考える葦を操る藁人形の奏者になってしまうのではないか。

これは、ある意味、親と子の関係にも、専門家と素人の関係にも似ている。
私たちは、これまでどのように知識量のギャップを乗り越えてきたいのか。

キーポイントは、"例え話"のような気がしている。

例え話という知識伝達

私たちは、普段、自分自身が詳しく知っていることを他分野にかたに伝えるときに、類似の知識構造をしている知識を使って説明することがある。例え話の効果は大きくすでに相手が理解している記憶構造を基に説明可能となるという点で非常に効率的な伝達方法であるとともに、自己の内部的な知識に基づいて解釈をするというプロセスを経ることで納得性が上がるという点がある。

これは、複合的な知識を使って他分野の当たり前的な知識をまとめて、共有することて、知識構造を射することで、理解のきっかけを与えられるものと捉えられる。ここでポイントなのは、知識構造が伝達の肝であり、知識そのものは変数に代入された実数的なものであるということである。

これらを基に考えると、当たり前の知識を自由に使える状態というのは、すでに利用頻度の高い知識構造に、新しい知識構造が射影され新規に理解するコストが最小化されるシステムなのかもしれない。

このような立場に立った時に、学習は、知識構造の獲得と定義され、研究とは、知識構造に代入する新しい実数の探索ということになる。この工程を、意識せずに支援される状態がきた時、私たちはやっとあらやる業界の当たり前の知識を使えるようになるのかもしれない。

この辺りは、拡張性人工知能の文脈であったり、ニューラルリンクなどの埋め込み型の支援デバイスなど、多くの考えるべき事例があるが、収束しなくなるので、別のノートで書く事例はまとめたいと思う。

あらゆる業界の当たり前な知能を自由に使えるとき

私たちは、本当にやるべきことに向き合えるかは、非常に難しい課題だと感じている。

なぜなら、当たり前の知識を全て使えることができるとき、それは、言い換えれば、本当の目的が、人類の知の限界を押し広げることであるかということが問われるからだ。それ以外は、全て知識構造への代入に他ならなくなってしまう可能性がある。

これは、現状の画像生成AIによって巻き起こされている議論と近いと思う。
あるいは、次世代の技術ネイティブな世代を恐れる部分とも近いのかもしれない。

これから先、多くの方が思っている以上にだいぶ近いうちに、実行するより、新しい何かを価値があるものとして思いつくことが難しくなる世界が来る。

その時、私たちは、何を考えるのだろうか。

私は、考えることを楽しめる世界を残したい。

だって、人の知能の限界なんてものより、世界知能の限界を求めることの方が圧倒的に楽しいじゃないか。たとえそれがただのエネルギーでしかないとしても。

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