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『普通の人でいいのに!』が描く「安全にイタい」刺さらなさ

深夜にふと読んだ『普通の人でいいのに!』

 先日SNS上でバズっているのをお見かけした『普通の人でいいのに!』(冬野梅子/【モーニング月例賞2020年5月期】奨励賞受賞作)。
 何やら「刺さる」とか、「自意識が抉られる」とか、感想で賑わっていて、その手の話が好きな私は、深夜にさっそく読んでみました。

 ……で、驚いた。まったく面白くなかったのです。面白くないというか、今一つ理解できませんでした。SNSでバズっているくらいだから、この作者の力量不足というわけではない気もします。
 端的な感想として、私が「時代についていけなくなった……」のだなと感じました。

「人の心を抉る快作」「つらすぎて読み切れない人もいるのでは?」「このキツさはすごい」……といった反応がタイムライン上で踊っておりました(ただ、私と同じように「わからない」という反応も一定数ありました)。この彼我の差はなんなのか、気になったので少し考えてみたいと思います。

 といいつつ、なんとなくこの作品の「リアリティ」はわかります。同じ作者の『マッチングアプリであった人だろ!』(冬野梅子/清野とおるエッセイ漫画大賞最終選考候補作品)を読むと、少し理解が深まった気がしました(こっちのほうが作者の歪みが自覚的にストレートに出ていて、個人的には面白かったです)。

主人公の「何もしなさ加減」と「プライドの肥大」

『普通の人でいいのに!』のあらすじをざっと紹介すると、「カルチャー好きの主人公」⇒「さほど惹かれない男性と付き合う」⇒「カルチャー系の仕事をする友人・知人への羨望が膨らむ」⇒「憧れの放送作家の結婚、彼氏への失望、友人との決別などから破たん」という感じです。

 ほとんどモノローグ主体で話が進んでいくので、主人公以外の登場人物が何を考えているのかは類推すら難しい作品です。そのぶん、主人公の自意識に焦点が絞られていて、「刺さる」とか「抉られる」とかいう感想が出るのももっともらしい。
 どことなく、岡崎京子とか魚喃キリコとか、90年代フィールヤング系とでも称される作品が好きそうな雰囲気がします。「肥大した自意識のイタさ」という意味では、渋谷直角さんの漫画も想起しました。

 が、何か違う……。何が違うかって、「自意識」の在り方が決定的に違う気がします(それ自体は良い悪いではないですが)。たとえば、「ダメな彼氏と別れられない」みたいな執着心とか、「美人になる」ことへの異常な欲望とか、「カルチャー愛と自己愛」のズレた同一視とか、何かしらそういう「指向性」からくる「自意識の肥大」が、この手の漫画には描かれていたような気がするのです。

 翻って、『普通の人でいいのに!』の主人公は、本当に読んでも「何が好きなのか」「何がしたいのか」「何を夢見ているのか」が曖昧模糊としていて判然としません。実際に、ラストのラスト以外は、取り立てて何の自発的な行動も取りません。

シンプルに性格が悪い? それが共感を呼ぶ?

 正直、一読しての感想は、「すごいシンプルに性格の悪い人の話を読んじゃったな~」という感じでした。この主人公、やたらと人を天秤にかける思考回路を持っているのですが、その先から何が出るでもないのです。
 ただ、一人脳内でジャッジして、脳内で「OK」とか「NG」とか出して、その判別と行動が伴うわけでもなく、ただただ状況に流されていきます。
 終盤、その主人公にキレられる彼氏も、友達も、あまり描かれてはいませんが、「ポカーン」とするばかりではないでしょうか。

 冒頭から、ちょっと気になりました。『普通の人でいいのに!』というタイトルから、「趣味も合わないし冴えないけど、好意を寄せてくる男性(妥協)」と「憧れているけど、手が届きそうにない男性(理想)」の間で、どちらを選択すべきか煩悶する話なのかと思っていました(『勝手にふるえてろ』綿矢りさ、みたいな)。

 そういう側面もなくはないですが、どうにも違うのです。主人公は冒頭、まあ取り合えず相手してみるか、と好意を寄せてくる男性と食事をします。そこで、好きな映画を「伝わらないかな?」と思いながらも、「ノア・パームバックとか?」と言うのですが、趣味の合わない彼が知らないと聞くや、もうそれで終わり。「こういう映画があって、こういうところが好きなんです」といった類の説明はゼロ。「嫌いなタイプはホモソーシャルどっぷりな人」と言って、少しズレた解釈をされても、「ちょっと違いまして、ホモソーシャルっていうのは~」というような説明も一切しない。

 作劇として、一切この二人が合わない、という描写だとは思いますが、その後二人は付き合うのです。一方で、憧れの「放送作家」の男性が出てくるのですが、「なぜその人を好きなのか」「その人とどんな話で盛り上がるのか」といった描写はありません。

 もちろん、「恋愛漫画」的に読むのは間違いかもしれません。主人公が、「彼氏はいないよりいたほうがよい」という考えを持っているのがちょっと解せないのですが、「主人公の自意識の在り様」を揶揄する形で描くのが主題だと思います。『普通の人でいいのに!』は男性のことではなく、主人公に向けてつけたタイトルでしょう。

 しかし、これだと主人公が「どういう人か」「何が好きなのか」「何をしたいのか」、全然伝わってきません。だから、私には何に悩んでいるのかが判然としません。
 何かよくわからないけど、異常に他人を秤にかける、けど自発性はない、けどプライドは異常に高い人、というシンプルに性格の悪い人としか見えないのです。

「イタく」すらなれないのが、「現代のリアリティ」なのかもしれない

 先に挙げたような漫画家の作品に出てくる主人公たちは、みな「イタい」キャラクターでした。「浅く薄っぺらい自分」を何とか穴埋めしようと、「彼氏」とか「知識」とか「見た目」とか「肩書」で武装しようとする人です。
 彼ら、彼女らは浅く薄っぺらく、取り繕うのに必死で、他人の目ばかり気にして、そのくせ真に自分はないので、たいがい恥をかきます。あるいは自己嫌悪の地獄に落ちます。

 だから、ある種の人に「刺さる」のです。だって、多くの人は浅く薄っぺらくて、取り繕うのに必死で、他人の目が気になっちゃうから……。だから、劇中で必死になって馬鹿馬鹿しい言動を取る主人公を、冷笑しつつも共感してしまうのです。

 その点、この作品の主人公は、本当に何もしません。自分がたいした人間でないという冷静な客観視だけはしっかりしているのですが、その先は何もない。本当に何もしない。
 彼氏とのコミュニケーションを図るとか、憧れの人にアプローチするとか、友人に近づくために転職を試みるとか、何もない。ただただ、受け身な姿勢と、ジャッジする思考回路だけで、この主人公はずっとこうやって生きてきたのだろうなと感じられました。

 ハッキリ言うと、単に「つまらない人間」にしか私には見えませんでした。そんな人物が、まさか「刺さる」「抉られる」と称される作品の主人公になりえるとは思いもしませんでした。私からすると、この主人公は全然イタくないです。何もしない人、何もしないでも生きていけた人、という感じで、高いプライドの中身もよくわからないし、だからイタくなりようもないのです。

 でも、もしかしたらこういう人は、今の世の中にはたくさんいるのかもしれません。バズったことは、その証左かもしれません。私には、恥もかかない(かけない)、ダサい努力もしない(できない)、何もしない(できない)主人公のプライドの肥大は、ただただ不毛で不全なだけな気がしてなりません。そんな気分が世の中を覆っていきつつあるのでしょうか。

朝の連ドラで『あまちゃん』という作品がありました。そこで主人公の能年玲奈ちゃんが、相方的なキャラクターであり、うらぶれた橋本愛ちゃんにこう言います。

『ダッセェくらいなんだよ、我慢しろよ!』 

 「刺さる」「抉る」漫画は、「共感するお前はダセえんだよ」「共感したお前はダサさを我慢しろよ」と言っていたのではないでしょうか。それが、いわゆる「サブカル的」だったのではないでしょうか。
 宮藤官九郎が書いたこのセリフ、当時は後半の東京編になって「あまちゃん」が面白くなくなった気がしていた私は、世間で称賛されているのを知りながら、ピンときていませんでしたが、あるいはいよいよ大事になってきているのかもしれません。

 この漫画家さんは、確実に人気になっていくでしょうから、ウラジオストクに行けなかったその先を描いたような漫画、恥をかいた先の人間を描いてみてほしいなと思いました。


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