『女帝』(石井妙子)への斎藤美奈子評について【備忘録】
石井妙子さんと斎藤美奈子さん
『おそめ』や『原節子の真実』といった名著を読んで、「すごいノンフィクション作家だ」と尊敬していた石井妙子さんの新刊『女帝』を、2ヶ月前くらいに読みました。都知事選前で超話題になった本です。
面白かった。相当以上に小池百合子を悪く書いていて、偏って悪く書きすぎではあるのは、すぐに感じました(これはかなり多くの人が感じると思います)。でも、「政界渡り鳥」と揶揄され続けてきた小池百合子のベールを剥いでいくようなストーリーラインに、グイグイと読まされました。
さて、数日前に文藝評論家の斎藤美奈子さんによる『女帝』評が、軽く話題になりました。
斎藤美奈子さんと言えば、フェミニズム批評のトップランナーとでも言うべき方で、『紅一点論』とか『文壇アイドル論』とか、昔から楽しく読んできました(フェミニズム批評でない文芸評論も多い)。
で、めちゃくちゃ要約すると、斎藤さんは「ミソジニーにまみれた本だ!」と『女帝』を批判しているのですが、なるほどと思うところと、今一つよくわからないところがあったので、メモ書きしておきます。
石井妙子さんはフェミニスト? アンチ?
石井妙子さんの本をすべて読んできたわけではありませんが、『女帝』は石井さんの本の中でもかなり特殊な気がします。『おそめ』や『原節子の真実』は、男社会の中で翻弄されながらも、逞しく生きた女性を描いた評伝です。
読めばわかりますが、書き手である石井さんが、対象人物に敬意と愛情を深く持っているのが伝わってきます。一方、『女帝』は明らかに対象人物(=小池百合子)への敵意で満ちています。それは刊行インタビューからもうかがえます(直接は否定していますが、行間から)。
『女帝』では、小池百合子の「世渡り術」「権力者(主に年配男性)への擦り寄り」を強調した書き方をしていて、完全にそんな生き方なり、人物なり、それをを歓迎する社会なりを問題視しています。既刊書に滲み出る愛情と裏表のような書き手の感情を感じました。
石井妙子さんがフェミニストなのか、アンチ・フェミニストなのかと、雑な二分法で問われたら、まあフェミニストなんじゃない?と思います。
さほど文面は割いていませんが、土井たか子と対比する描写などでは、「名誉男性」的に小池百合子を描写しています。まあ実際は、「フェミニストとして!」というより、ノンフィクション作家としての感性で書いている気はします。
批判の矛先は、ノンフィクションとしての瑕疵ではない?
さて、前掲の斎藤美奈子さんによる評ですが、
はっきりいいますが、この本を褒めた人は、(1)じつはきちんと読んでいない、(2)都知事選前の時流に流された(リベラル陣営に忖度した・選挙で彼女を落選させたかった)、(3)そもそも本を読む力がない、(4)そもそも性差別主義者である、のどれかではないかと思います。
といきなりバッサリきます(この過剰表現は斎藤さんの上手さかも)。で、
【ルッキズムにそって作られたストーリー】
【ノンフィクションとしての質の問題】
【政治家としての小池百合子の評価】
【環境大臣時代の仕事について】
の4つの軸で批判を展開されています。このうち【ルッキズムにそって作られたストーリー】については、「なるほど」と膝を打ちました。言われると、確かにそうかもしれない。
どうも私は、自分自身が顔が悪いことを気にして生きてきたぶん、「ルッキズム」の問題が今一つつかめないところがあります。とりあえず、一方的にすぎる書きぶりだったなとは思い返します。ただ、
自らのアザのコンプレックスと、美人の従妹への対抗心が今日の小池百合子を作ったといいたいのだろうか? こんなストーリー(しかも憶測に基づく)って、昭和30年代の少女マンガだよ。てか、少女マンガだってここまで嫌らしくはない。美醜に異常にこだわっているのは、小池ではなく著者ではないのだろうか。「女にとって容姿は人生を左右するほど決定的な要因なのだ」といわれているようで、非常に気分が悪いです。
「昭和30年代の少女マンガ」でなく、現代でも十分あり得るのではないかと、私なんかは思ってしまいます(もちろん、それは下品な表現技法かもしれません)。まあ「女にとって」というより、「人にとって」でしょう。
で、以降の3つの軸はちょっとよくわかりません。「不完全なノンフィクションだ」「著者の主観が入りすぎている」「一方的にすぎる」というのは、その通りでしょう。それはマズいのでしょうか。
いや、文字面だけで言うと、マズいはマズいんですが、どれくらいからマズい、と明確に線引きできるものでもない気はします。
早川玲子(仮名)なる人は、小池百合子に相当ふりまわされたのでしょうし、嫌な思いもしたのだろう。それはよくわかるし、嘘をいっているとも思わない。でもさ、20代のごく短い一時期をいっしょにすごしただけの人ですよ。
そのくらいの関係性の人に、「あの人はこういう人」と決めつけられたのではたまらないよ。
この人に限らず、本書に証言者として出てくる人は、匿名が多いのね。
週刊誌記事からの引用が多いことも気になります。
別の評伝で描かれている小池百合子像はまったく別物です。
なんだろう。ノンフィクションに完璧なんてあるのでしょうか。ある種、批評的に書くことだって、アリじゃないですか(完全な事実誤認などは除いて)。反例として挙げている『挑戦 小池百合子伝』(大下英治)だって、斎藤さんも書かれていますが、好意的な方向で‟批評”しているノンフィクションでしょう(私は未読なので、はっきり言えませんが)。
それに、
カイロ大学を出た出ない問題がそんなに大事?
カイロ大学という看板は途中までは彼女の人生にとっては大切だったかもしれませんけど、政治家としての彼女には関係ない。学歴問題に執拗に固執なさっている方々は、東大出とかの学歴エリートのみなさまだけではないでしょーか。「小池百合子の学歴詐称疑惑」は「蓮舫の二重国籍問題」と同じ揚げ足取りに思えます。
は乱暴にすぎるのでは?学歴エリートのみなさまだけが問題にしているのでしょうか。普通に(仮にウソだったとしたら)詐術だと思うのですが??
一般大衆(投票する民衆)が、「東大出」とか「カイロ大出」とかで評価を容易く変えることは、斎藤さんが知らないわけがないと思います。しかも、そうしたことを問題視する記述は、厚く『女帝』に書かれています。
結局、批判は「ミソジニー」的であるというところに焦点があるのではないでしょうか。
フェミニズムは一枚岩ではない
この『女帝』評、実は著者である石井妙子さんへの批判は直接は出てきません。批判されている矛先は、
ことに多くの「左派リベラル系男性論客」がこぞって激賞している(多くはないが、女性でも褒めてる人がいる)のを見て、絶望的な気持ちになり、いまでもまだ、半分くらい立ち直れていません。
「女を使ってのしあがった」「媚びを売って地位を得た」「若い女は下駄をはかせられている」「逆差別だ」とは、能力のない男たちが口にする「悪口」の常套句ですが、この本も、同じ轍をふんでいる。がっかりします。
この本を賞賛した「リベラル系男性論客」たちは「僕の大嫌いな小池百合子が罵倒されてる。わーい」と思ったのだろうか。しかし、仮に『女帝』の言説をまんま信じるとしても、このくらいの女性なら、いっぱいいるよ。それを「怪物」と感じるとしたら、いろんな種類の女の人を知らなすぎる。そもそも女性の政治家にだけ「100%の清廉潔白」を求めるのがおかしな話です。男の政治家はどうなのよって話です。
この本を褒めている「男性」です(そして特にリベラル系らしいです)。で、おっしゃっていることの半面はその通りだと思います。でも、この本は、小池百合的な「女性」を称揚してしまう「男社会」に問題があると批評しているノンフィクションであって、「女性の政治家にだけ」清廉潔白を求めているわけではないと思います。
「女を使ってのしあがった、媚びを売って地位を得た、その何が悪いんだ!」という主張なら、『女帝』のスタンスと真っ向から対立するのでわかるのですが、「‟女性”政治家を批判するのは良くない!」というのであれば、私には今一つわかりません。
なんというか、「フェミニズム」という言葉が乱暴すぎる気が、最近はします。石井妙子さんの本を執筆した想いと、斎藤美奈子さんが評を書いた想いは、もしかしたら同じく「フェミニズム」に根差しているかもしれませんが、かなり様相は違うように見受けられます。
「女性」も「男性」も同性なら同じ考えを持っているわけもなく、「フェミニズム」も一枚岩ではないでしょう。「ミソジニー」とか激しい言葉で脅してかかるような書き方は、あまり好きじゃないです。