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『スケアクロウ』のライオンは「みすぼらしい人」だったのか?

「アメリカン・ニューシネマ」の傑作『スケアクロウ』

「アメリカン・ニューシネマ」をご存知ですか。映画通には説明不要、逆に明確な定義があるわけでもないと思いますが、60年代末~70年代後半にムーブメントを起こした、反体制、アンチ・ハリウッド的な姿勢を鮮明にした作品群の総称です。

私は中学生くらいに『俺たちに明日はない』(67年)を観てからというもの、この手の映画がとても好きになりました。何となくの傾向から定義をすると、
◎「パターナリズム(マッチョイズム)」批判
◎「自由」への希求
◎低予算
◎バッド・エンドを迎える
が特徴としてあるかと思います。例として、『イージー・ライダー』『明日に向って撃て!』『真夜中のカーボーイ』『バニシング・ポイント』『ダーティ・メリー/クレイジー・ラリー』『ロング・グッドバイ』『狼たちの午後』『タクシードライバー』など。時期が違うので、あまり言われませんが、『暴力脱獄』(67年)や『ランボー』(82年)などもそうかなと個人的には思います。

そんな中でも、『スケアクロウ』(73年)という作品は特別に好きです。パルム・ドールも受賞している有名な作品です。

対照的な二人のロード・ムービー

「アメリカン・ニューシネマ」のほとんどがそうであるように、さほど込み入ったストーリーはありません。主要な登場人物はマックス(ジーン・ハックマン)とライオン(アル・パチーノ)の二人。刑期を終え、新たな人生として洗車屋を始めようとピッツバーグに向かうマックス、船乗りを辞め、まだ見ぬ我が子に会おうとデトロイトに向かうライオン。二人のロード・ムービーです。

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 冒頭、たまたまタバコの火を借りたところから、物語は始まります。ひょんなことから、二人は連れ立って旅をすることに。マックスはとにかく短気で、すぐに怒り出す暴力的な男です。一方のライオンは、陽気で温和ながらなよっとした人物。対照的な二人は、マックスの妹の家に寄ったり、刑務所に送られて散々な目にあったりしながら、デトロイトに着きます。

 この映画は二人の友情が育まれていく様を描いています。あまりに喧嘩っ早いマックスに対し、モーテルに泊まった際、ライオンはこんな話をします。
「案山子(スケアクロウ)がいると、カラスは畑を荒らさない。でも、案山子はカラスを脅してるんじゃない、笑わせてるんだ。だから、笑わせてくれるイイ奴がいる、この畑は荒らさないでおこう、とカラスは思うんだよ」
 このセリフは、タイトルの由来であり、ライオンの人格を端的に表しています。

ライオンに抱いた感情移入

 私は普段、あまり映画や文学、漫画などの登場人物に対して、過剰に感情移入して見ることありません。ただ、このライオンに対しては、特別に親近感を覚えます。それは、良い面も悪い面もです。

 ライオンは、マックスが暴力的な振る舞いを見せようとすると、すかさず笑いに転嫁しようとします。
 マックスが万引きしようとしたら、ライオンは足を踏み鳴らしてふざけて防ぐ。「血も涙もない冷酷な人間だから、厚着をしているんだ」というマックスに対し、「殴るんじゃなくて、笑わせれば許されるよ」と諭すライオン。
 そんなライオンに次第に感化されたマックスは、酒場で酔客に怒り心頭したとき、ついに態度を変えます。何枚も何枚も来ていた服を、一枚一枚ストリップのごとく脱いでいき、その場を笑わせるのです。ライオンの考え、生き方が、マックスに浸透した証左です。

 さて、これでライオンの生き方、すなわち「人に怒るより、人を笑わせるのが善」という結末を迎えるなら、よくあるヒューマン・ドラマです。ところが、デトロイトに着いてから、一気に物語は暗転します。

 我が子のためのプレゼントを抱えて旅してきたライオンは、意を決して奥さんに電話します。しかし、「(実際は子どもは育っているにもかかわらず)死んだわ」という返事を受けます。
 絶望に叩き落されたライオンは、精神に変調をきたし、「洗礼させなきゃ!」と見ず知らずの町の子どもを噴水に浸からせたのち、急速に体調を悪化させます(おそらく、もともと子ども好きだったのかと)。

 なぜライオンは身ごもった奥さんを置いて、船乗りとして5年も家を空けていたのか。なぜ今になって子どもに会おうと思ったのか。その経緯は、劇中で一切明かされません。しかし、おそらくライオンは、何か「向き合えない」人だったのだと思います。
 それは「男らしくケンカに勝つ」とか、「男らしく家庭を持って子育てする」とか、「男らしく経済的責任を負う」とか、そうした具体的なことかもしれませんが、それ以上に「案山子は笑わせるから、荒らされない」という考え方そのものが、どこか「現実を生き抜く」には無理があったのでしょう。
 その態度は、よく言えば優しさですが、悪く言えば取り繕いであり、逃避的な処世術でもあります。

「アメリカン・ニューシネマ」らしからぬ「ニューシネマ」

 先に、ニューシネマは「バッド・エンドを迎える」と定義しました。その意味で言うと、この映画は微妙です。マックスはライオンに確かな友情を抱いていました。今にも死ぬかというくらい、衰弱しきったライオンは病院に運ばれます。そこでケチ臭い素寒貧だったはずのマックスは、「金はある!治してくれ!」と医師に懇願し、「俺だけじゃ、ダメなんだ!」とマックスに叫びます。
 ラスト、マックスはピッツバーグに向かいます。ライオンを置き去りにした? そうもしれませんが、切符売り場の売り子に対して言う、映画の最後のセリフはこうです。「往復切符をくれ!」

 畢竟、ライオンは、自分の「なさけなさ」「みじめったらしさ」に向き合えない「スケアクロウ(みすぼらしい人)」でした。でも、「殴るより笑わせようよ」という姿勢は、ねじくれたマックスを変えました。
 これはバッド・エンドでありながら、ライオンという人の存在価値を高らかに謳ったハッピー・エンドでもあります。マックスというどうしようもない暴力男が、更正する物語でもあります。

 対照的な二人がなぜ友情で結ばれたのか――それは、二人とも「孤独」だったからでしょう。体制への反逆はありませんが、明らかに「パターナリズム」を否定している作品です。どうしようもない人と人とが出会い、偶然に旅を続けるうちに、「友情」に芽生え、自らの非を正していく。自らの情けなさを許してもらう。非情なリアリズムの中で、ファンタジーを見せてくれる、これぞ「映画」です。

 これは私が好きな「ニューシネマ」であり、「ニューシネマ」らしからぬ傑作です。

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