35.「日本で英語を最大限に活かす能力」とは〜英語学習の目的〜
先日行われた英語学習者の集いでの会話です。
参加者の一人でいらっしゃったNatsuko Gomiさんからこんな質問が出されました。
「日本で英語を使う時、"英語の力"を最大限に発揮するために必要な能力って何だと思う?」
ぐふぅっ・・・。
深い・・・。
私は、「日英双方の単語の”等価性”を正しく理解していること」「専門知識を備えること」の2つをお答えしました。
言い換えますと、
①日本語と英語の間で生じる微妙なニュアンスの違いを理解し、それを補正できる能力
②専門性のある分野について英語で意思疎通できる能力
ということです。
一方、Natsukoさんご自身の意見は「英語を完璧に訳せる日本語能力」でした。
帰国子女であるNatsukoさんは、英語の発言を完ぺきに理解できても、それを日本語に言い換えることに難しさを感じておられ、とのことでした。
ご自身の経験に基づいた説得力ある意見で、異論を挟む余地なく「なるほど!」と思いました。
勉強会を終えても、Natsukoさんの意見は強く印象に残っていて、自分の意見と対比して考えてみました。
二人の言葉に表現の違いがあっても、自分が間に立つ限り、会話の当事者間で誤解を生じさせてはならないと考えている点で根底は同じだという結論に達しました。
この点で、「とりあえず通じればよい」という外国語の学習姿勢を100%後押しする意見ではないでしょう。
学校の英語教育は、実用主義が求められています。使えるように、通じるようになるため、アウトプットの技能向上が求められています。
これに偏りすぎると、使えれば良い、通じれば良い、という姿勢になりかねません。(もちろん、学習の初期段階ではこの意識で良いと思います。)
市民レベルの交流にとどまらず、業務として英語などの外国語を使おうとするのであれば、更に深く、文化や歴史の知識を備えるといったレベルまで学習を深化させる必要がありそうです。
私は以前から日本で英語を勉強する目的とは何かについて学生に向けて話すと仮定して考えていました。
とりあえず、思い付くまま出した暫定的な回答を以前noteで記しました。
ここの記した意見はいずも形式的で、説得力不足を感じています。
回答らしき意見を求め、年始に外山滋比古先生の書籍を再読しました。
Amazonでは古いバージョンが表示されていますが、2022年5月中に第10版として復刻版が出版されています。
私は昨年の夏、書店で偶然目にして購入し、一読していたのですが、1984年に出版されたこの書籍には英語教育について現在にも通じる多くの有益な意見が記されていたため、この度読み直してみました。
なぜ英語を勉強するのかについて、「役に立つ」「役に立たない」、実用主義と教養主義の対立について議論を進め、明治維新の「追いつけ追い越せ」を目指した外国語教育に触れつつ、著者はこう述べています。
一国の文化を大上段に語れるような位置に私はいませんが、外国語の学習意義について、最終的には、異文化理解の域にたどり着くのでしょう。
国際会議では、多国籍の人々が集まると、多くは英語で意思疎通が図られています。
しかし、英語は世界の基軸言語といえど、イギリスやアメリカ独自の文化を背景に持つわけですから、そのほかの国々の人々の意図をうまく運べているのか、疑わなければなりません。
帰国子女のバイリンガルの方がそうおっしゃっているので、外国語の学習は、言語単体にとどまることなく、文化や歴史を尊重する教養主義に到達するのが筋なのだろうという結論に達しました。
指導者としては注意が必要なようです。
千葉雅也先生は、『勉強の哲学』で、「勉強の本質は、『言語』の問題である。」と述べておられます。
深い勉強とは、自分の価値観が変わってしまうような勉強で、その意味で勉強は自己破壊であり、外国語を勉強し、異文化に触れることで、自己破壊に至ることを勧めてとおられます。
外国語が自国文化を刺激する触媒となるという外山滋比古先生の意見と共通している気がしますが、この点については、私自身が高名な先生方の意見を引用するにとどまらず、もっと考察を深めなければならないと思います。
私自身、学習の深化が必要です。
なんだかわかりにくい日本語ばかりになってしまった気がします。
通訳のように、「つまりこういうことなんですよ」という追加記事が必要かもしれません(笑)
考えるきっかけを頂いて感謝しています。
ありがとうございました。